「順法闘争」の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 04:34 UTC 版)
国鉄では当時、賃金引上げや労働環境の改善・合理化反対を目指して、労働闘争が頻繁に繰り返されていたが、公共企業体職員であった国鉄労働組合(国労)などの労働組合員は、公共企業体等労働関係法(公労法)第17条で争議行為、すなわちストライキを禁じられていた。そこで、組合側は運転安全規範などの諸規則を厳格に遵守するとかえって列車の運行が遅延することを逆手に取り、運転安全規範などの諸規則を「遵守」することで、労働闘争の手段とした「順法闘争」を度々行っていた。 なお、「順法」とは言われているものの、日本国政府は1956年(昭和31年)にこのような形式をとる労働闘争を「違法」(犯罪)と認定していた。しかし、判例形成には至っておらず、行わないようにという指導の範囲に過ぎなかった。 1970年代当時、国鉄動力車労働組合(動労)は、国鉄経営陣に対し2つの要求を行い、順法闘争を実施した。 その要求は、ひとつが踏切事故防止のため警報機と遮断機を全ての踏切に設置すること、もうひとつは「安全のため」全長2キロメートル以上のトンネルがある区間と深夜時間帯の運転士を2人勤務にするものであった。前者の要求について経営側は全部は無理だが実施するとしたが、後者については拒否した。なお、運転士2人勤務とは蒸気機関車時代の名残で、蒸気機関車では運転を担当する機関士と石炭をボイラーに投入する機関助士が運行上必要であった。しかし、電化進展や気動車の導入などによる動力近代化が推進され、蒸気機関車を全廃する方向へ向かったことや、保安設備の近代化によって機関助士の出番がなくなり、運転士1人でまかなえるようになった。このため経営陣と動労は1972年(昭和47年)5月までに、蒸気機関車や特別な事情がある場合を除き、運転士1人勤務を原則とする労働協定を締結していた。 ところが動労は、蒸気機関車の全廃が早まったためか、1973年(昭和48年)になって2人勤務の話を蒸し返し、2月1日から「第2次順法闘争」が始まり、3月5日から散発的に全国的に順法闘争を実施した。結果としてダイヤの乱れが発生するようになった。 「労働争議#旧日本国有鉄道の順法闘争」も参照
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