「老中の城」
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寛永10年(1633年)、豊後国日田藩より石川忠総が7万石で入り、翌寛永11年(1634年)に近江国膳所藩へ移封。 寛永12年(1635年)に摂津国高槻藩から松平家信(形原松平家)が4万石で入った。寛永15年、松平康信が家督を継承した際、弟の氏信・信忠に2000石ずつ分与。寛永17年(1640年)、康信は旧領の摂津国高槻藩へ戻る。 寛永19年(1642年)、信濃国松本藩から老中堀田正盛が11万石で入るが、慶安4年(1651年)に3代将軍・徳川家光に殉死。子の堀田正信は万治3年(1660年)、幕政に不満を抱き、佐倉に無断帰城したため、改易除封。正信の時代には「農民の窮状を将軍に直訴して処刑された」義民佐倉惣五郎の事件があったとされるが、事実として確認できる事項は少ない(公津村の「惣五郎」という有力農民が何らかの理由で処刑され、その後、堀田氏の改易と「惣五郎の祟り」を結びつける伝承が生じたことは確認される。佐倉惣五郎参照)。このほか堀田氏の領国では寛政20年(1643年)に「農民の窮乏を救うため藩の米蔵を破り自害した」東金の義人大多和四郎右衛門の伝承も伝わっている。 寛文元年(1661年)、上野国館林藩から松平乗久(大給松平家)が入るが、延宝6年(1678年)に肥前国唐津藩へ移封。 同年、松平乗久と入れ替わる形で、肥前国唐津から老中大久保忠朝が8万3000石で入る。1680年(延宝8年)に1万石の加増を受け、1681年(天和元年)に忠朝は老中首座となる。なお、忠朝は1684年(貞享元年)に江戸城内で大老堀田正俊(堀田正盛の子で、正信の弟)の殺害事件に遭遇し、居合わせた阿部正武・戸田忠昌らとともに加害者稲葉正休を討っている。貞享3年(1686年)に相模国小田原藩へ移封。 同年、武蔵国岩槻藩から老中戸田忠昌が6万1000石で入封。元禄7年に1万石加増されて7万1000石となる。元禄12年、跡を継いだ忠真は弟の忠章に3200石(これに加え新田3800石)を分知し、佐倉藩6万7800石となる。忠真は元禄14年(1701年)、越後国高田藩へ移封。 戸田忠真と入れ替わりで、越後国高田藩から新任の老中稲葉正往が10万2000石で入封。正往の命を受けて、藩儒磯辺昌言が地域の歴史・地理書『総葉概録』『佐倉風土記』を編纂している。次代・稲葉正知は享保8年(1723年)に山城国淀藩へ移封。 稲葉正知と入れ替わりで、山城国淀藩から新任老中松平乗邑(大給松平家。乗久の孫)が6万石で入った。乗邑は享保の改革を推進した老中として知られる(のちに老中首座、勝手掛老中)。延享2年(1745年)、徳川家重が将軍に就任すると乗邑は老中を罷免され、減封を受けた上に隠居を命じられた。乗邑の子の乗祐が家督を継いだが延享3年(1746年)に出羽国山形藩へ移封された。
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