「老中の城」とは? わかりやすく解説

「老中の城」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:56 UTC 版)

佐倉藩」の記事における「「老中の城」」の解説

寛永10年1633年)、豊後国日田藩より石川忠総が7万石入り、翌寛永11年1634年)に近江国膳所藩移封寛永12年1635年)に摂津国高槻藩から松平家信形原松平家)が4万石入った寛永15年松平康信家督継承した際、弟の氏信・信忠2000石ずつ分与寛永17年1640年)、康信は旧領摂津国高槻藩へ戻る。 寛永19年1642年)、信濃国松本藩から老中堀田正盛11万石で入るが、慶安4年1651年)に3代将軍徳川家光殉死。子の堀田正信万治3年1660年)、幕政に不満を抱き佐倉無断帰城したため改易除封正信時代には「農民窮状将軍直訴して処刑された」義民佐倉惣五郎事件があったとされるが、事実として確認できる事項少ない(公津村の「惣五郎」という有力農民何らかの理由処刑されその後堀田氏改易と「惣五郎祟り」を結びつける伝承生じたことは確認される佐倉惣五郎参照)。このほか堀田氏領国では寛政20年1643年)に「農民窮乏を救うため藩の米蔵破り自害した東金義人多和四郎右衛門伝承伝わっている。 寛文元年1661年)、上野国館林藩から松平乗久大給松平家)が入るが、延宝6年1678年)に肥前国唐津藩移封同年松平乗久入れ替わる形で、肥前国唐津から老中大久保忠朝が83000石で入る。1680年延宝8年)に1万石の加増を受け、1681年天和元年)に忠朝は老中首座となる。なお、忠朝は1684年貞享元年)に江戸城内で大老堀田正俊堀田正盛の子で、正信の弟)の殺害事件遭遇し居合わせた阿部正武戸田忠昌とともに加害者稲葉正休討っている。貞享3年1686年)に相模国小田原藩移封同年武蔵国岩槻藩から老中戸田忠昌が61000石で入封。元禄7年1万加増されて71000石となる。元禄12年、跡を継いだ忠真は弟の忠章に3200石(これに加え新田3800石)を分知し、佐倉藩67800石となる。忠真は元禄14年1701年)、越後国高田藩移封戸田忠真入れ替わりで、越後国高田藩から新任老中稲葉正往10万2000石で入封。正往の命を受けて藩儒磯辺昌言地域の歴史地理書『総概録』『佐倉風土記』を編纂している。次代稲葉正知享保8年1723年)に山城国淀藩移封稲葉正知入れ替わりで、山城国淀藩から新任老中松平乗邑大給松平家。乗久の孫)が6万石入った。乗邑は享保の改革推進した老中として知られる(のちに老中首座勝手掛老中)。延享2年1745年)、徳川家重将軍就任すると乗邑は老中罷免され減封受けた上に隠居命じられた。乗邑の子の乗祐が家督継いだ延享3年1746年)に出羽国山形藩移封された。

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