「真田幸村」の由来とは? わかりやすく解説

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「真田幸村」の由来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 01:06 UTC 版)

真田信繁」の記事における「「真田幸村」の由来」の解説

真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。直筆書状始め生前確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無い。信繁道明寺の戦い勇戦した家臣6名に対して将棋の駒型の木片戦功書き記した感状与えている。「繁」の字の下半分に花押重ね書きする信繁書き癖から翻刻された際に「信仍」「信妙」と誤写されているが、花押の形が信繁のものである断定でき、死の前日まで「信繁」と名乗っていたことが確認できるまた、幸村署名され古文書は、記録類のなかに書写されたものが2通見られるが、いずれも明らかな偽文書で、信繁幸村自称したことの証明にはならない。 「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣終わってから60年近く経った寛文12年1672年)に刊行され軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。『難波戦記』では昌幸の次男左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸」との名乗り登場するが、前述のようにこの名乗り実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。 しかし「幸村」という名前に説得力があった。「幸」は真田家や(真田家本家にあたる)海野家通字であり、また「」については徳川家仇なす妖刀村正由来利用された。俗説ではあるが、村正幸村佩刀であったとか、介錯村正用いられたとかいう話がある。もちろんこれらは誤伝であるが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。そのため、元禄14年1701年)に書かれた『桃源遺事』(徳川光圀言行録)では既にもう、編集者三木之幹、宮田清貞、牧野和高らがわざわざ、幸村誤り、信仍が正しと書き記したほどである(もっとも、信仍というのも誤っている)。 時代が下るにつれて幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主務めた松代藩正式な系図までもが「幸村」を採用した松代藩作成した系図の『真田家系図書上案』では信繁だけだが、『真田家系譜』になると幸村現れる大坂夏の陣から200年近く後、文化6年1809年)、徳川幕府大目付から「幸村名について問い合わせ受けた松代藩真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨回答している。 篠原幸久は論文で、武田信玄同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記作者らには真田信繁活躍を描く効果上、その旧主一門著名な同名者の呼称避け意図があり、信繁名乗り否定され幸村案出されたのであろう主張する信繁発給文書20点確認でき、花印は9回変えている。

※この「「真田幸村」の由来」の解説は、「真田信繁」の解説の一部です。
「「真田幸村」の由来」を含む「真田信繁」の記事については、「真田信繁」の概要を参照ください。

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