「歴史の討論」とは? わかりやすく解説

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「歴史の討論」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 16:20 UTC 版)

アラン・ドゥコー」の記事における「「歴史の討論」」の解説

こうした著書刊行雑誌への寄稿通じてルイ16世マリー・アントワネット関心深く歴史関連記事書いていたジャーナリスト、アンドレ・カストロ(フランス語版)に出会い意気投合した二人以後数十年にわたってラジオ・テレビ番組制作・担当することになる。最初1951年始まったパリ・アンテル(現フランス・アンテル(フランス語版))のラジオ番組歴史討論フランス語版)」であった。この番組1997年まで半世紀近くわたって続き記録的な長寿番組となった次に今度フランス放送協会国営テレビ・ラジオ局)のモーリス・カズヌーヴ(フランス語版)からテレビ歴史番組出演してほしいという依頼があった。フランスでテレビ普及し始めた頃のことで、ドゥコー丁重に断ったが、夏の休暇の間だけ、しかも夜の番組最後に放映する15分番組で、内容進め方はすべて彼が決めということ引き受けた。この番組好評博したため、翌年の夏にも同じ番組担当したところ、カズヌーヴ夏の休暇明け9月から30分の番組組みたい提案された。当時番組はすべて生放送で、当然、プロンプターもなかった。煙草吸ったことのないドゥコー煙草を吸うほどに緊張していたという。最初自分撮影した動画を使うことを提案したが、自分操作する逆に混乱して茫然自失のまま番組終えた評論家番組評価されたものの、混乱ぶりを指摘されたため、以後スライドを映すだけで、語り専念した。これで「地味なスーツ着て鼈甲眼鏡をかけた歴史学者カメラ向かってひたすら語る」という番組のスタイル決まった。 「歴史の謎(フランス語版)」と題するこの番組は、ドゥコーカステロ、および舞台監督として知られるステリオ・ロランジ(フランス語版)が共同制作し1年ほどの間に11放映された。この後1957年番組名を「カメラ時代探査するフランス語版)」に変更時間1時間延長して1966年までの間に39放映された。いずれも好評で、トピックによっては記録的な視聴率となった国営放送のみであった当時にあって番組存続にとって重要なのは視聴率より国の政策であった。ロランジは共産党員であり、冷戦のさなかに共産党員番組制作関わることを快く思わなかったド・ゴール政権下の官僚は、「カメラ時代探査する」の廃止決定した

※この「「歴史の討論」」の解説は、「アラン・ドゥコー」の解説の一部です。
「「歴史の討論」」を含む「アラン・ドゥコー」の記事については、「アラン・ドゥコー」の概要を参照ください。

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