「歴史の討論」
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こうした著書の刊行や雑誌への寄稿を通じて、ルイ16世やマリー・アントワネットに関心が深く、歴史関連の記事を書いていたジャーナリスト、アンドレ・カストロ(フランス語版)に出会い、意気投合した。二人は以後、数十年にわたってラジオ・テレビ番組を制作・担当することになる。最初は1951年に始まったパリ・アンテル(現フランス・アンテル(フランス語版))のラジオ番組「歴史の討論(フランス語版)」であった。この番組は1997年まで半世紀近くにわたって続き、記録的な長寿番組となった。 次に今度はフランス放送協会(国営テレビ・ラジオ局)のモーリス・カズヌーヴ(フランス語版)からテレビの歴史番組に出演してほしいという依頼があった。フランスでテレビが普及し始めた頃のことで、ドゥコーは丁重に断ったが、夏の休暇の間だけ、しかも夜の番組の最後に放映する15分の番組で、内容や進め方はすべて彼が決めるということで引き受けた。この番組が好評を博したため、翌年の夏にも同じ番組を担当したところ、カズヌーヴに夏の休暇明けの9月から30分の番組を組みたいと提案された。当時、番組はすべて生放送で、当然、プロンプターもなかった。煙草を吸ったことのないドゥコーが煙草を吸うほどに緊張していたという。最初は自分で撮影した動画を使うことを提案したが、自分で操作すると逆に混乱して茫然自失のまま番組を終えた。評論家に番組を評価されたものの、混乱ぶりを指摘されたため、以後はスライドを映すだけで、語りに専念した。これで「地味なスーツを着て、鼈甲の眼鏡をかけた歴史学者がカメラに向かってひたすら語る」という番組のスタイルが決まった。 「歴史の謎(フランス語版)」と題するこの番組は、ドゥコー、カステロ、および舞台監督としても知られるステリオ・ロランジ(フランス語版)が共同で制作し、1年ほどの間に11話放映された。この後、1957年に番組名を「カメラが時代を探査する(フランス語版)」に変更、時間も1時間に延長して1966年までの間に39話放映された。いずれも好評で、トピックによっては記録的な視聴率となった。 国営放送のみであった当時にあって、番組の存続にとって重要なのは視聴率より国の政策であった。ロランジは共産党員であり、冷戦のさなかに共産党員が番組制作に関わることを快く思わなかったド・ゴール政権下の官僚は、「カメラが時代を探査する」の廃止を決定した。
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