「書くという行為」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:11 UTC 版)
上記のような主題を通じ、安部は『箱男』を書くに際し、「小説」とは何か、「人間がものを書くという行為について、こんどほど考えたことはなかった」とし、「現代小説のもつアンチ・ロマンの方向を、どうしたら少しでも飛躍させられるか、そんな冒険もやってみたんです」と述べつつ、各章を独立させた作品構成の意図について以下のように語っている。 二回読んでもらうとわかると思うのですが、バラバラに記憶したものを勝手に、何度でも積み変えてもらうように工夫してみたんですよ。つまり作者にとって一人称のタッチでは手法的に限定があるし、三人称では勝手すぎて作品の信用が薄れる危険がある。そこで両方を自由に操る方法はないかと考えた結果で、読者にとっては小説への参加という魅力が生まれるんじゃないか。 — 安部公房「『箱男』を完成した安部公房氏――談話記事」 このように安部は、読者自身が断章のテクストを読みながら「再構成」することによって、小説に参加できる形式を試みているが、こういった「遺された手記」の形式は『人間そっくり』や『他人の顔』、錯雑する形式も『S・カルマ氏の犯罪』や『榎本武揚』などでも散見され、『箱男』はそれまでの手法の活用や、実験の集大成ともされている。 なお、安部は『箱男』の執筆中に発表した短編挿話(《夢のなかでは箱男も箱を脱いでしまっている。箱暮しを始める前の夢をみているのだろうか、それとも、箱を出た後の生活を夢みているのだろうか……》の章)の削除された冒頭部で、「物語」というものについて以下のように示唆している。 物語とは、因果律によって世界を梱包してみせる思考のゲームである。現在というこの瞬間を、過去の結果と考え、未来の原因とみなすことで、その重みを歴史の中に分散し、かろうじて現在に耐え、切り抜けていくための生活技術としての物語。 — 安部公房「〈物語とは〉――周辺飛行1」 この主題に関し、一部の批評家のあいだで、安部は『箱男』で小説形式というものを破壊してしまい、とりわけ結末部分が意味するのは、「文学の死そのもの」だといわれていることについて問われると、安部は、『箱男』は「サスペンス・ドラマないし探偵小説と同じ構造」だと答え、以下のように語っている。 あの男は罪を犯した男ですから、したがってぼくがあの小説を書くためにその罪を犯したことになると思います。でもあの男の正体はだれにもわかりません。ぼくが「箱男」の中で読者に伝えようとしたのは、箱の中に住むことはどういうことなのかと考えてもらうことでした。 — 安部公房(聞き手:ナンシー・S・ハーディン)「安部公房との対話」
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