「幻影」「夢幻」勝利の主題
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「屋上の狂人」の記事における「「幻影」「夢幻」勝利の主題」の解説
菊池寛は、日本の文壇で戯曲の創作がなされ始めた1909年(明治42年)頃に、欧州近代劇の正統な素地もなく、いきなりヘンリック・イプセンやバーナード・ショーなどの〈思想劇問題劇〉が多く移入されたことは、日本の創作劇にとってあまり良くなく〈正当なる発達を妨げた〉とし、さらにもう一つ、日本の創作戯曲の発達を阻害したものとして、アクションの稀薄な〈メーテルリンクなどの脈を引く気分劇情調劇〉を挙げ、なにも近代思想など盛らなくてもシングやロード・ダンセイニのような良い戯曲はいくらでも書けるはずだと考え、〈国民生活の中核に隠れて居る力強い深刻な題目〉を掴むことを戯曲創作の主眼とした。 イプセンやショオやハウプトマンなどの思想劇問題劇などは、何(ど)うも本道を歩いて居る戯曲だとは思はれない。戯曲は、思想だとか問題などゝ云ふそんな不快な雑音に煩はされて居ない。純な人生の戯曲的表現ではないかと思ふ。戯曲には新しい思想を盛られなければならないと云ふやうな考へ方は、どれほど良い戯曲の発達を毒して居るか分らないと思ふ。(中略)戯曲と云ふものと生半可な近代思想と云ふものとが、同一不可分のものゝやうに思はれて居る。が所謂近代思想などゝ云ふものと少しも交渉しないでも、良い戯曲は幾何でもかけると思ふ。その例としては、シングやダンサニイなどを挙げてもよいと思ふ。日本の創作劇が変な新しがりを捨てゝ、もつと国民生活の中核に隠れて居る力強い深刻な題目を掴むやうに努力しなければ、とてもよい創作劇は発達しないと思ふ。 — 菊池寛「劇及劇場に就て」 また、戯曲を創作する第一歩である〈主題(テーマ)〉を掴むことの重要性を語る中、〈主題が一歩進むとそれが一の思想にまで進む〉とした上で、『屋上の狂人』を創作する際に影響を受けたシングの『聖者の泉』(The Well of the Saints)の主題と思想について菊池は論じており、その主題を〈幻影はある人々には生活の糧である。幻影を奪ふことは、さうした人々の生活を壊すことである〉と纏めている。 シングの『聖者の泉』のあらすじは、村人たちから美男美女だと嘘で褒められ、施しを受けながら暮らしている盲目の夫婦が、ある日村にやって来た聖者が飲ませた泉の奇蹟の力で目が見えるようになるが、夫婦が見たものは醜悪な現実だったため、奇蹟の効力が消えて再び盲目になった時に、再度聖者の奇蹟を受けることを拒否するという話で、現実よりも幸福な〈幻影〉〈夢幻〉を望むという主題となっている。 こうした〈愛蘭土特有の空想の勝利、現実に対する夢幻の勝利〉や〈幻影復興現実忌避〉が描かれているシングの『聖者の泉』の主題は、最後に、常人になることより狂人のままの人生をよしとする『屋上の狂人』の逆説的な主題に通じている。
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