「奥州総奉行」の内実とは? わかりやすく解説

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「奥州総奉行」の内実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 23:21 UTC 版)

奥州総奉行」の記事における「「奥州総奉行」の内実」の解説

奥州総奉行は、このように奥州合戦戦後処理を契機として設置されたものであるが、建久2年1191年正月15日鎌倉幕府職制にも記されておらず、その後も特に大きな職限をもつような奥州奉行存在確認されていない伊沢家景建久4年1193年)、将軍頼朝献上され淡路国産の「九本足の異馬」を津軽外ヶ浜の地に放ち翌年6月京都から鎌倉送検され獄囚数名奥羽に流すなどの沙汰をしているが、これは頼朝の命を受けたものであった建久6年1195年)、家景は、平泉塔の修理藤原秀衡未亡人保護葛西清重とともに命じられており、『吾妻鏡』建久6年9月3日条および9月29日条には、家景清重両人がその任にあたったのは「奥州惣奉行たるによってなり」と記している。ただし、これが葛西氏の「奥州惣(総)奉行としての活動について記す唯一の文献資料である。兼任の乱以前葛西氏地位明確に奥州惣奉行」と記した史料存在せず可能性としては、伊沢葛西両氏ならびたつ段階になってはじめて両者通称として奥州惣奉行」なる概念発生したとも考えられまた、葛西氏の子孫が先祖の名誉を誇って主張するようになったではないかとも推測される葛西清重大河兼任の乱鎮圧においては一時的に陸奥国留守所預かっている(『吾妻鏡』建久元年正月6日条)ものの、実際鎮圧の際には足利義兼千葉胤正の下で戦っており、一介御家人上の役目与えられていなかった。また、梶原景時失脚以降もっぱら鎌倉将軍周辺活動しており、清重の子孫は引き続き陸奥国内に所領有していたものの、その役割陸奥国所領を持つ普通の御家人上の役割担ったことを示す史料確認されていない。これに対して大河兼任の乱以降陸奥国留守職任じられ伊沢家景勧農権検断権行使しており、伊沢家景こそが名実ともに奥州惣奉行」に相応し存在であったとする見方もある。また、家景の子に関しては、正嘉の飢饉の際に執権北条長時連署北条政村より飢民救済命じ命令文書が陸奥留守殿(家景の孫の留守家広)に対して出されている(『鎌倉遺文』8347号)が、これと同じ文書諸国守護に対して出されていることが確認できる(『鎌倉遺文』8346号)他、宝治合戦後に奥州逃亡した佐原秀連が討たれ報告も「留守介」が行っており、家景の子孫が留守職として家景勧農権検断権継承していたことが確認できるいずれにせよ葛西氏平泉の、伊沢留守)氏は多賀城にあった既存権力かかわりから現地支配進めていったものと考えられる平泉多賀城両所は、特に鎌倉時代初期奥州にあってきわめて重要な役割果たしたのである

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