「唐絵」としての花鳥画
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「花鳥画 (日本)」の記事における「「唐絵」としての花鳥画」の解説
日本では「花鳥」という言葉自体は古くから知られており、『万葉集』巻第十五には中臣宅守の詠んだ和歌に「花鳥に寄せ思ひを陳べて作る」という注があり、また『古今和歌集』の真名序(漢文の序)にも和歌について、「好色の家、これを以ちて花鳥の使ひとなし」という記述がある。この「花鳥の使ひ」とは唐の玄宗皇帝と楊貴妃の故事から「恋の仲立ちをするもの」という意味である。「花鳥画」という言葉の有無にかかわらず、「花や鳥をあらわしたもの」という例であれば、奈良正倉院所蔵の工芸品や平安時代の仏画等にまで遡る。しかし中世以前の日本では、「花鳥」が独立した画題としてまだ扱われていなかった。 現在京都妙法院に所蔵される「後白河法皇像」は鎌倉時代の作とされているが、像の後ろには引き違い形式と見られる花鳥画を描いた障子(襖)があり、よく見ると画像左側の障子には岩に添うように生えている花に小鳥がとまって花をついばみ、右側の障子にも花をついばむ小鳥が描かれている。この「後白河法皇像」に描かれた花鳥画は宋時代の画風とも、また唐時代の画風であるともいわれている。 鎌倉期以降の絵巻物などをみると屋内に墨絵の山水画が描かれた障子(襖)があり、これによって当時すでに墨絵の山水画が障壁画の画題として成立し制作されていたと指摘されている。それらは当時の宋や元時代の画風に倣うもので、「大和絵」に対する「唐絵」(からえ)という範疇で扱われ制作されていた。花鳥画についても「後白河法皇像」の例で見るように、これも鎌倉期にすでに障子に描かれた「唐絵」の花鳥画があったとみられる。 室町幕府の同朋衆のひとりであった能阿弥は墨絵の花鳥画屏風を残しており、それは応仁3年(1469年)3月に浄土真宗の僧侶に贈った四曲一双の屏風である。花鳥画の障壁画として現存する作例としては最古のものであるが、その画風は中国の画人牧谿のものに倣った「唐絵」である。
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