「ハインドマン・リージョン」の指揮
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「トマス・ハインドマン」の記事における「「ハインドマン・リージョン」の指揮」の解説
しかし、ハインドマンの布告は地元市民の怒りを買い、市民やハインドマンの政敵達はリッチモンドにいるアメリカ連合国の指導者達に罷免を要求した。1862年8月までにリッチモンドの指導層は人当たりが良いが無能なセオフィラス・H・ホームズとのすげ替えを決めた。ハインドマンはホームズを説得してアーカンソー州北部での野戦指揮を任させ、侵入者を追い出す作戦に臨んだ。ハインドマンはアーカンソー州北部に積極的に進行し、北軍が2つに分かれている間にこれを妨害しようとした。しかしこの時、ハインドマンの通常は攻撃的なやり方が性格にあわない疑念に譲った。北軍の分かれた部隊を攻撃するよりも、プレーリーグラブで塹壕に入り、北軍が再結合して南軍を攻撃してくることを許した(プレーリーグラブの戦い)。 ハインドマンの陣地は良く選定されたものだったが、装備や物資の豊富な北軍は南軍を疲れさせたので、ハインドマンはリトルロックに向けての後退を強いられ、北軍を潰す機会を失った。プレーリーグラブでの行き詰まりの後、ハインドマンは川のこちら側に戻され、親友のパトリック・クリバーンと共にチカマウガの戦いに参戦した。チカマウガで首を負傷した後、ハインドマンとその部隊はテネシー軍と共に北軍ウィリアム・シャーマン将軍に対抗してアトランタ方面作戦を戦い続け、第一次ダルトンの戦いからマリエッタの直ぐ郊外のケネソー山の戦いまでジョージア州を横切った。1864年7月4日、ケネソー山で、木の枝で目を打たれ落馬した。ハインドマンは重傷であり、野戦での任務を果たせなくなった。ハインドマンはアトランタに行き、その後メイコンに行って傷の快復に努めた。その後、十分に快復すればまた戦えるものと期待していた。ハインドマンはミシシッピ川流域方面軍への転属を申請した。その要請はアメリカ連合国陸軍省に拒否されたが、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスはハインドマンの「肉体的不能」から十分に快復するまで休暇を提案した。ハインドマンは休暇が8月に認められるとテキサス州に向かった。その旅の間にハインドマンの2番目の娘、サリーがミシシッピ州メリディアン近くで病気のために死んだ。ハインドマンはサンアントニオに到着し、家族と共に暫くはそこに落ち着いた。ハインドマンは1865年1月26日に軍隊の士官や地元の住人から栄誉を授けられた。1865年5月までに、ニューオーリンズの南軍将軍達は北軍の将軍に対して南軍の降伏条件を示す書類に署名した。ハインドマンは降伏を拒否し、多くの元南軍兵と共にリオ・グランで川を越えてメキシコに入り、避難所を求めた。
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