「ハインリヒ」の名と序数
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「ロイス家」の記事における「「ハインリヒ」の名と序数」の解説
ロイス家の全ての男子は、洗礼名としてハインリヒ(Heinrich)を名乗る決まりである。個々の男子を区別するため、必ず名前に序数が付けられる(ハインリヒ~世というようにである)。 この異常とも言える一族の掟は、1668年にはロイス家の家内法に明記された。独立諸侯であった兄系と弟系のロイス侯家が断絶した後も、一族の末裔たちによって堅固に守られ続けている。この伝統はおそらく1200年頃、遠祖のハインリヒ2世(Heinrich II. der Reiche、1209年以前に没)が、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世によりクヴェトリンブルク帝国女子修道院(Stift Quedlinburg)の城代に任命された際に、多大な恩義を受けたことを忘れないため、全ての子孫にハインリヒ皇帝の名前を付けるように決めたものと考えられている。 1564年に分裂する以前のロイス家は、非常に論理的な形で、自分の家系内の男子に誕生した順序通りに序数を付けていった。新しい分家が創始されるごとに、その分家では序数が「1世」から始まった。ロイス家の祖家はヴァイダ城代系統、ゲーラ城代系統、プラウエン城代(のちマイセン城伯)系統、グライツ領主系統(ロイス家)に分かれていたが、グライツ領主家も本家から分かれた際に1からナンバリングを始めている。1564年の分裂以降、中子系は、古くからの序数の付け方を維持した(中子系は、1616年にハインリヒ18世(Heinrich XVIII)の死により断絶した)が、長子系(兄系)と末子系(弟系)では、序数が極端に大きくなるのを避けるためにナンバリングに関する新しい方法を定着させた。 兄系ロイス家では、初めは各世代が始まるごとに序数を1に戻していた。この方法は時代が下り、兄系ロイス家内に2つの分家が創始された後も続いていた。第1世代は、グライツ=ブルク家のハインリヒ1世(1632年生)から始まり、グライツ=デーラウ家のハインリヒ16世(1678年生)で終わっている。第2世代は、グライツ家のハインリヒ1世(1693年生)から始まっている。本家が1768年に断絶した後、ロイス=グライツ侯ハインリヒ11世は次世代の序数を1に戻すことをせず、兄系ロイス家全体での世代ごとのナンバリングを廃止して、諸分家の家内のみで序数を増やし続ける方式に変更した。 弟系ロイス家では、始祖であるハインリヒ2世ポストゥムス(Heinrich II. Posthumus (Reuß-Gera))の10人の息子たちが1世から10世までを名乗り、その10人兄弟の息子たちの世代も、最後に生まれたハインリヒ29世(1699年生)に至るまで弟系ロイス家全体でのナンバリングを続けた。その次の世代(始祖ハインリヒ・ポストゥムスの曾孫の世代)で最初に生まれたシュライツ家のハインリヒ1世(1695年生)から序数を1に戻し、世代に関係なくケストリッツ家のハインリヒ75世(1800年生)まで続けた。こうして、弟系ロイス家では世紀が変わるごとに序数を1に戻す方式を確立した。三巡目となる19世紀には、ケストリッツ家のハインリヒ1世(1803年生)から始まり、四巡目となる20世紀はケストリッツ家のハインリヒ1世(1910年生)から始まった。 弟系のロイス=ローベンシュタイン=エーベルスドルフ侯ハインリヒ72世(1797年生)は、最も大きな序数のついた君主として、ギネス・ワールド・レコーズに登録されている。
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