「ネロの5年間」の立役者
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「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の記事における「「ネロの5年間」の立役者」の解説
54年10月、クラウディウスが毒キノコを食して中毒死し、後継の皇帝としてドミティウス(=皇帝ネロ)が即位した。なお、セネカはネロがクラウディウスに対して行った追悼演説を起草したと伝わっている。セネカは後世から言及される「ネロの5年間」「5年の良き時代」のバックボーンとして活躍したとされるが、具体的にセネカが果たした役割ははっきりとしない。 ただし、グナエウス・ドミティウス・コルブロが活躍したことで知られるパルティアとのアルメニア問題での対応やボウディッカによるブリタンニアでの大反乱(ワトリング街道の戦い)といった国難が続く中で、未だ幼少であったネロを支えて、ブッルスと共に国政を運営したものと考えられている。なお、カッシウス・ディオは「セネカがブリタンニアの豪族に対して高利で金を貸し、突如として一括での返済を要求したため、ブリタンニアの豪族が絶望に陥った」ことがボウディッカの反乱が起こった要因の一つとしている。 この時期に、プブリウス・スイッリウス・ルフス(de)が「質素倹約を旨とするストア派の哲学者でありながら野心を露にし、強欲と無実の罪をでっち上げ・多くの人物を冤罪に貶めたことで財を成した」としてセネカを激しく糾弾したが、セネカはスイッリウスとのこの闘争に断固反撃、勝利を収めた。一方のスイッリウスは財産を半分没収された上でバレアレス諸島へ追放された。 一方でネロの治世は徐々に歪み始めていった。原因はアグリッピナとネロの対立であり、ブリタンニクスをネロに代わる皇帝候補と宣言したアグリッピナに対してネロがブリタンニクスを毒殺したこと(55年)が端緒となった。また、ネロはブリタンニクスの姉で初代皇帝アウグストゥスの血を受け継ぐオクタウィアを皇后に迎えていたが、夫婦仲は冷却。ネロは友人でもあったマルクス・サルウィウス・オトの妻ポッパエア・サビナと公然の愛人関係を持っていた。オクタウィアとの婚姻関係が皇帝の正当性を担保するものと考えたアグリッピナはネロとポッパエアとの関係を潰しに掛かったが、この頃アグリッピナと距離を置いていたセネカはネロに肩入れし、オトをローマから遠ざけるためにルシタニア属州総督へ任命するネロの決定を後押ししたとされる。
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