―奥州軍の2度目の西上―とは? わかりやすく解説

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―奥州軍の2度目の西上―

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)

南部氏」の記事における「―奥州軍の2度目の西上―」の解説

一方南部師行ら、顕家の第二次西上南朝西上軍には『南部史談会誌によれば伊勢から駆けつけ、顕家の命で男山に陣取った顕家の弟・北畠顕信に従っていた三戸南部氏11世の南部信長や、南部茂行・南部信行兄弟もいた。延元2年1337年8月11日に、奥州霊山発した顕家率い第2次西上軍には、南部師行結城宗広伊達行連、下山信夫、など6千騎が駆け付け程なく10万騎になると東北から尊氏傘下にあった京都目指し進軍し戦勝重ねた新田義興北条時行加わったとされる鎌倉での足利義詮が守る戦いでは、大将斯波家長自決させた。 延元3年1338年1月2日西上軍は義良親王奉じる鎌倉発し青野ヶ原の戦いでも小笠原貞宗高重茂今川範国上杉憲顕桃井直常土岐頼遠らの足利勢の大軍破っていたが、背後から立て直した鎌倉足利勢8万騎や、黒血川を背にした足利直義率いた新たな足利勢の挟み撃ち避けて義良親王後醍醐帝開いた吉野送り届けた。しかし京都目前男山救援軍勢分けていた顕家は、般若坂の戦いで待ち受けていた高師直率い北朝軍と交戦、師行は顕家とともにその家士108名が戦死している。日蓮宗関係史料によれば引き続き甲斐河内地方居住し続けている複数系統南部氏一門がおり、南朝方に属していたと伝えられる。 政長は戦死した兄師行の跡を受け、子の信政らと糠部根城南朝側として戦い続ると、興国元年1340年伊勢戻っていた顕信が南朝立て直しのため奥州鎮守府将軍として派遣された。この年より尊氏直義から政長へ投降促す書状が実に7回も送られることになるが、政長・信親子山辺合戦の後も糠部鹿角合戦で功をあげ、一族南朝支持動性は孫の信光・政光の時代南北朝合一まで変わることはなかった。 正平22年1367年1月11日甲斐波木井城に在った南部信光は、同国神郷領主神大和守の襲来退け6月後村上天皇から褒賞として、神大和守跡や甲冑授かっている。文中3年1374年)、信光は弟の政光を糠部から甲斐呼び寄せ家督を譲る。天寿2年1376年1月12日波木井城の南部信光は、八戸置いた嫡子・長経が幼少のため、弟・政光へ八戸譲り状記し翌日同地逝去した。

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