―奥州軍の1度目の西上―
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)
前年11月に綸旨を受けて、義良親王を奉じた奥州の北畠顕家の軍勢は、途中、鎌倉の足利の軍勢を破り、建武3年1月12日に5万騎が東坂本に着き、新田氏の軍勢4万5千騎や楠木正成の軍勢と合流した。足利氏に組した三井寺の戦いを制した義貞・顕家・正成の軍勢は2月6日、豊島河原の戦いも制すと、足利勢は味方についた300艘余りの船で敗走、九州に向かった。 元弘3年(1336年)1月、九州に落ち延びた尊氏の軍勢は多々良浜の戦いの後、建武政権に不満の九州などの武士を集め京を目指し東上を開始した。後醍醐天皇は建武3年(1336年)1月、供奉の者らと再び比叡山へ入った。同年、5月25日、湊川の戦いに敗れた義貞の軍勢は京を離れた後醍醐帝に従って叡山に立て篭もり、反尊氏の武士や奥州からの顕家の軍勢を再び待ったが、尊氏は京に入り光明天皇を即位(北朝)させた。 しかし奥州の顕家の軍勢の出立は1年以上遅れ、10月、後醍醐帝は若宮の東宮を新田義貞に預け、持明院統の豊仁親王(後の光明天皇)を推し立てて北朝を開いていた尊氏は建武政権との和睦に応じた。しかし後醍醐帝の一行は捕らえられ帝は幽閉され、供奉の武士の多くは殺害された。和睦に同意せず帝の一行から離れ恒良親王を伴っていた義貞は北国へ向かっていた。12月、後醍醐帝は幽閉されていた花山院を脱出して吉野に向かい、吉野朝廷(南朝)を開く。
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