変死体
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変死体(へんしたい)とは、日本の刑事訴訟法第229条において取り扱いが規定されている、変死者または変死の疑いのある死体の二者を総括した呼び名のこと。
概要
- 変死者
- 異状死体の一部で、医師によって明確に病死や自然死であると判断されず、かつ、死亡が犯罪によるものであるという疑いのある死体のこと。
- 変死の疑いのある死体
- 異状死体の一部で、医師によって明確に病死であると判断されておらず、かつ、死亡が犯罪によるものであるか不明である死体のこと。[1]
つまり両者をまとめると、変死体とは、死亡が犯罪に起因するものでないことが明らかではない死体のこと。変死体は通常の医師では死亡診断を下すことが出来ず、警察官による検視の対象となり、監察医や法医学研究室等の検案によって死因の判断が行われる。また、死因疎明に必要があれば行政解剖や親族の承諾による任意の解剖、犯罪死の可能性がある場合は司法解剖の対象となる。[2]
脚注
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及. “変死体(へんしたい)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年12月16日閲覧。
- ^ “警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律”. www.shugiin.go.jp. 2023年12月16日閲覧。
変死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 04:39 UTC 版)
寛永9年(1632年)、金剛山正眼院で営まれた桂林院殿(秀宗の正室の亀)の三回忌法要の際、大風で落ちてきた本堂の梁の下敷きとなり圧死した。 その後も山家殺害事件の関係者らが次々と変死を遂げたために山家の祟りと言われた。なお、桜田元親が死亡した時の話は「肥前平戸藩 松浦鎮信 武功雑記巻十七」に記されている。 危険になり他人を避難させ、その上で自分はただ一人残り法要を続け、姿勢正しいまま圧死したとの内容。他に、河股城撤退時が見事であったと記載されている。 この記載からは責任感、筋を通す性格が伺える。他人を逃がしたことも評価されるかも知れない。諫言する人物のイメージとも異なる。しかし一人危険の中残り、死亡する直前迄姿勢正しくいたということは、融通がきかず引かない一面があったことが伺える。真面目過ぎる性格が、山家公頼との対立を双方引くことが出来ない迄に至らしめたことを、暗示しているように読み取れる。 いずれにしても、祟りとは異なる死亡時の様子、武辺咄(ぶへんばなし)を集めた他藩の書物に残されたことを考えると、当時和霊騒動の物語とは異なる人物像であったと推測される。 子孫の桜田親義は外交官となり、明治10年(1877年)からローマ公使館に駐在し、明治14年(1881年)からはオランダ臨時代理公使としてハーグに駐在したが、明治18年(1885年)、現地の愛人であったジーン・ロレットにより別れ話のもつれから射殺された。
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