金沢城
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歴史・沿革
戦国時代・安土桃山時代
- 天文15年(1546年) - 空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。
- 天正8年(1580年) - 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。
- 天正11年(1583年) - 賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が4月28日(新暦6月14日)に入城し、尾山城と改称した。
- 天正15年(1587年) - バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近が利家に呼ばれ、尾山城の大改造を行った(再び金沢城に改称されたのはこの頃といわれている)。
- 文禄元年(1592年) - 利家の子、前田利長が再び改造を行った。
- 慶長7年(1602年) - 天守が落雷によって焼失、代わりに三階櫓が建造された。また、この頃から金沢城という名称が定着した。
江戸時代
明治以降
- 1873年(明治6年) - 全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方により存城処分となり、陸軍省の財産となる。
- 1875年(明治8年) - 陸軍歩兵第7連隊が金沢城址に置かれた。
- 1881年(明治14年) - 火災で石川門と三十間長屋と鶴丸倉庫以外の九十間長屋、五十間長屋、三の丸井戸、四十間長屋、橋詰門、河北門、河北門番所、二の丸御殿、二の丸御殿番所、鼠多門、鼠多門長屋2棟、鼠多門土塀、大手門、桐木門、土橋門、車橋門、裏口門、金谷門、西丁口門、松坂門を全て焼失。
- 1898年(明治31年) - 陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第二次世界大戦が終わるまで存続した。
- 1923年(大正12年)6月14日 - 前田利家の金沢城入城にちなんだまつり、金沢市祭が始まる(現:金沢百万石まつり)。
- 1949年(昭和24年) - 戦後新設された金沢大学の丸の内キャンパスとなった。
- 1995年(平成7年) - 金沢大学が移出。
- 1996年(平成8年) - 石川県が国から金沢城址を取得し、金沢城址公園として整備を開始。
- 1999年(平成11年) - 金沢城の木造復元整備事業の第1期工事を着工。
- 2001年(平成13年) - 第1期工事により、菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が木造復元完了し、金沢城公園と改称された。又、予算の関係で三の丸の焼失した三の丸井戸は木造復元しなかった。
- 2006年(平成18年) - 日本100名城に選定された。石川県と金沢市は、金沢城址を中心とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産(文化遺産)への登録を目指し、「世界遺産暫定一覧表」への記載を国(文化庁)に共同提案したが、継続審議が適当とされ追加記載には至らなかった(#外部リンク参照)。
- 2006年 - 2014年 第2期復元整備事業
石川門の保存修理、橋爪門櫓門の木造復元整備などが行われた。金沢城の中核をなす二の丸御殿の木造復元については、2007年9月19日の石川県議会において谷本知事が「絵図、文献資料の解読に一定期間が必要であり、現時点では復元は困難(要旨)」との考えを示した。 - 2008年(平成20年) - 金沢城跡として国の史跡に指定された。
- 2011年(平成22年) - 河北門の木造復元と、いもり堀(一部)が復元された。又、いもり堀が半分の大きさで復元された理由は、道路の関係であり、河北門番所が木造復元されなかった理由は予算の関係である。
- 2013年(平成25年) - 石川門改修工事完成。
- 2014年(平成26年) - 玉泉院丸跡の暫定的整備が完了。
- 2015年(平成27年) - 玉泉院丸跡に玉泉院丸庭園と玉泉庵がオープン[6]。
- 2017年(平成29年) - 鶴の丸休憩館がリニューアルオープン[7]。
- 2018年(平成30年) - 鼠多門・鼠多門橋の木造復元が開始[8]。
- 2020年(令和2年) - 鼠多門・鼠多門橋の木造復元完了、一般公開[9][10]。又、鼠多門土塀と鼠多門長屋2棟を木造復元しなかった理由は予算の関係である。
- 2021年(令和3年) - 石川県が、二の丸御殿表向の復元整備に向けた基本方針を策定[11]。又、木造復元範囲を二の丸御殿表向台所・楽屋・番所、物置、二の丸御殿御居間廻り、二の丸御殿奥向を除く、二の丸御殿3200坪の内の二の丸御殿表向の主要部1000坪(4分の1)だけにする理由は、予算の関係や他の部分には豪華な障壁画や豪華な飾り金具がなかった為である。
- 2022年(令和4年) - 10月15日、五十間長屋の券売所として使用されていた二の丸案内所を改装し、二の丸情報館として開館。さらに、同日に金沢城の御城印を発売。デザインは、「なまこ壁」と「辰巳用水」の2種類とし、発売初日は100枚限定でシリアルナンバー入りの御城印を発売した。また、二の丸情報館開館記念及び御城印発売記念セレモニーが開催され、御城印の販売第1号となった人は、出席していた馳浩石川県知事から手渡された[12][13]。
- 2024年(令和6年) - 1月1日に発生した令和6年能登半島地震の影響で、4か所の石垣が崩壊[14]。翌2日より安全確認が取れるまで当面の間、公園内と兼六園を臨時休園とし、開催中の夜間開園及びライトアップの中止を決定した[15][16]。その後の調査で石垣の被災は27か所に及ぶことが判った[17]。
注釈
出典
- ^ “金沢城跡・珠洲陶器窯跡”. 石川県 (2012年10月16日). 2013年4月3日閲覧。
- ^ 『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日条「加州金沢惣持寺」
- ^ 瀬戸薫「金沢城と前田利家」『加能史料研究』第20号、2008年。/所収:大西 2016
- ^ 大西 2016, pp. 14–16, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」.
- ^ 武井弘一「第三章 文化期の気候と加賀藩農政」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』中塚武 監修、臨川書店、2020年11月30日、94-98頁。全国書誌番号:23471480
- ^ 金沢の新名所「金沢城・玉泉院丸庭園」開園-石垣背景にライトアップも(2015年3月18日、金沢経済新聞)2020年7月13日閲覧
- ^ 平成29年4月23日 金沢城公園 鶴の丸休憩館 オープン(2017年6月1日、石川県)2020年7月13日閲覧
- ^ 金沢城公園と尾山神社を結ぶ鼠多門橋 東京五輪までの完成目指す(2018年10月8日、北陸朝日放送)2020年7月13日閲覧
- ^ 鼠多門、開く 橋も完成、18日供用開始 金沢城公園(2020年7月18日、北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北國新聞))2020年7月19日閲覧
- ^ 鼠多門・鼠多門橋が完成 史実を尊重し木造復元を進める(2020年7月17日、北陸朝日放送)2020年7月19日閲覧
- ^ 石川県 (2022年2月1日). “金沢城二の丸御殿表向の復元整備に向けた取り組みについて”. 石川県. 2022年12月18日閲覧。
- ^ “金沢城公園の「御城印」 なまこ壁、辰巳用水デザイン:北陸中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2024年1月2日閲覧。
- ^ “金沢城公園「二の丸情報館」の開館、「御城印」の 販売開始セレモニーの実施について”. 石川県. 2024年1月2日閲覧。
- ^ “金沢城の石垣4カ所が崩落 能登半島地震で、臨時閉園|全国のニュース|北國新聞”. 北國新聞 (2024年1月2日). 2024年1月2日閲覧。
- ^ “地震による閉園のお知らせ|お知らせ|金沢城と兼六園日記”. www.siro-niwa.com. 2024年1月2日閲覧。
- ^ “地震による金沢城公園夜間開園及びライトアップ中止のおしらせ|お知らせ|金沢城と兼六園日記”. www.siro-niwa.com. 2024年1月2日閲覧。
- ^ “令和6年能登半島地震に伴う史跡金沢城跡の石垣被災地点”. 石川県教育委員会金沢城調査研究所. 2024年2月14日閲覧。
- ^ 「謎多き加賀百万石の居城 城郭建築の美を感じる金沢城」『石川のトリセツ』昭文社、2021年2月1日、70-71頁。
- ^ 金沢城惣構跡
- ^ a b ご利用案内(石川県金沢城・兼六園管理事務所)2020年7月13日閲覧
- ^ 兼六園プラスワン利用券(石川県公式ページ)2020年7月13日閲覧
固有名詞の分類
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