懐良親王
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懐良親王 | |
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懐良親王(『前賢故実』) | |
続柄 | 後醍醐天皇皇子 |
全名 | 懐良(かねよし) |
身位 | 一品・親王 |
出生 |
元徳元年(1329年)? |
死去 |
天授7年/弘和元年(1381年)初頭以降 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 二条藤子(二条為道女) |
役職 |
式部卿 征西大将軍 日本国王(明朝) |
サイン |
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。歌人としては、准勅撰和歌集『新葉和歌集』に1首が入集。
生涯
建武の新政が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して、味方の勢力を築こうと考え、延元元年/建武3年(1336年)[注釈 2]にまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。親王は五条頼元らに補佐されて伊予国忽那島(現在の愛媛県松山市忽那諸島)へ渡り、当地の宇都宮貞泰や瀬戸内海の海賊衆である忽那水軍の援助を得て数年間滞在した。
その後、暦応4年/興国2年(1341年)頃に薩摩に上陸。谷山隆信居城である谷山城にあって北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努める。ようやく肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、貞和4年/正平3年(1348年)に隈府城に入って征西府を開き、九州攻略を開始した。この頃、足利幕府は博多に鎮西総大将として一色範氏、仁木義長らを置いており、これらと攻防を繰り返した。
観応元年/正平5年(1350年)、観応の擾乱と呼ばれる幕府の内紛で将軍足利尊氏とその弟足利直義が争うと、直義の養子足利直冬が九州へ入る。筑前の少弐頼尚がこれを支援し、九州は幕府、直冬、南朝3勢力の鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に直義が殺害されると、直冬は中国に去った。これを機に一色範氏は少弐頼尚を攻めたが、頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝する。さらに懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏は九州から逃れた。
一色範氏が去った後、少弐頼尚が幕府方に転じたため、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、西牟田讃岐守ら南朝方は延文4年/正平14年(1359年)の筑後川の戦い(大保原の戦い)でこれを破り、康安元年/正平16年(1361年)には九州の拠点である大宰府を制圧する。
幕府は2代将軍足利義詮の代に斯波氏経・渋川義行を九州探題に任命するが九州制圧は進まず、貞治6年/正平22年(1367年)には幼い3代将軍足利義満を補佐した管領細川頼之が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣する。
その後は今川貞世(了俊)に大宰府・博多を追われ、足利直冬も幕府に屈服したため九州は平定される。懐良は征西将軍の職を良成親王(後村上天皇皇子)に譲り筑後矢部で病気で薨去したと伝えられる。
日本国王良懐
明の洪武2年(1369年)、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『明太祖実録』に書かれている。その記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている[1]。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。その後に懐良の勢力は後退し、洪武5年(1372年)に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
しかしそれでも、明側から「良懐」が冊封されたのは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明(北朝)の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している[2]。『明太祖実録』の洪武9年(1376年)4月条には「日本国王良懐が沙門の圭庭用(廷用文圭)などを送り、表文を上呈して馬と方物を朝貢し、また陳謝した」という記述があるが、佐久間重男は菊池氏が北朝の軍勢に押された情況から、懐良親王が明に使節を送る余裕はなく、九州に割拠していた南朝以外の地方勢力が明から「日本国王」として公認される懐良親王の名義を流用し、明との接触を試みた可能性が高いと推測している[3]。『明太祖実録』によれば、「良懐」の最後の遣使は洪武19年(1386年)11月にあったが、この頃は懐良親王の没後であったため、この使節は「良懐」の送ったものではない。栗林宣夫は洪武19年の遣使が懐良親王の名義を借りた八代郡の名和氏により派遣されたと見なしている[4]。
注釈
- ^ 鎌倉時代・南北朝時代の研究が進む以前は「かねながしんのう」と呼ばれることも多かった。詳しくは、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。
- ^ 時期については諸説あり。
出典
- ^ 栗林 1979, pp. 2–3.
- ^ 栗林 1979, p. 5.
- ^ 佐久間 1965, pp. 20–22.
- ^ 栗林 1979, p. 11.
- ^ “懐良親王御墓(八代市HP)”. 2015年1月12日閲覧。
- ^ 『明太祖実録』巻138, 洪武十四年七月戊戌条
- ^ 『明史』巻322, 日本伝
- ^ 『殊域周咨錄』第2巻東夷, 日本國
- ^ a b c d e 森 2019, pp. 293–294.
- ^ a b 森 2019, pp. 119–122.
- ^ a b 森 2019, pp. 306–309.
- ^ a b c d e 森 2019, pp. 270–272.
- ^ a b 森 2019, pp. 295–298.
- ^ a b 「後醍院系図」『諸家系図纂』所収
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