懐良親王 墓所・霊廟

懐良親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/30 00:15 UTC 版)

墓所・霊廟

懐良親王御墓(熊本県八代市)

墓所の伝承地はいくつかあるが、宮内庁は熊本県八代市のものとしている。明治になって同市の八代宮に祀られた。昭和3年(1928年)には鹿児島県谷山市(現・鹿児島市)に懐良親王を祭神とする谷山神社が建立された。

エピソード

洪武14年(1381年)7月、懐良親王の使者として僧の如瑶が明に入朝した際、明の太祖は日本が朝貢に不誠実であり、倭寇の取り締まりも怠るという理由で懐良親王を叱責する国書を送った。この国書で太祖は「島国の有利な地形を恃んで倭寇を放置している」と指摘し、もしこれを正さなければ禍を受けるだろうと威嚇した[6]。『明史』には太祖から伝わった高圧的な国書に対し懐良親王が大胆に応酬した事実が記録されている[7]。その内容はおおよそ次の通りである。

原文

臣聞三皇立極、五帝禪宗、惟中華之有主、豈夷狄而無君? 乾坤浩蕩、非壹主之獨權、宇宙寬洪、作諸邦以分守。蓋天下者、乃天下之天下、非壹人之天下也。臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。陛下作中華之主、為萬乘之君、城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絕之意。夫天發殺機、移星換宿。地發殺機、龍蛇走陸。人發殺機、天地反復。昔堯、舜有德、四海來賓。湯、武施仁、八方奉貢。臣聞天朝有興戰之策、小邦亦有禦敵之圖。論文有孔、孟道德之文章、論武有孫、呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。水澤之地、山海之洲、自有其備、豈肯跪途而奉之乎? 順之未必其生、逆之未必其死。相逢賀蘭山前、聊以博戲、臣何懼哉? 倘君勝臣負、且滿上國之意。設臣勝君負、反作小邦之羞。自古講和為上、罷戰為強、免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。

現代語訳

「臣(懐良)は三皇が登極し、五帝が宗廟を祀ったと聞きました。しかし、ただ中華に君主がいるだけで、夷狄に君主がいないことになるでしょうか? 天地は広く、ひとりの主のみの権力ではありません。世界は大きく、諸邦となって分かれています。そもそも天下とは、すなわち天下の天下であり、一人の天下ではありません。臣は遠く弱い倭国にいます。狭く小さな国で、城は六十に満たず、封土は三千に満たず、しかし足るを知っています。陛下(太祖)は中華の主となられ、天子といい、城は数千を超え、封土は百万里もあって、なお足るを知らず、常に他を滅ぼし絶やすことを考えています。

さて、天に殺機を発すれば星宿が移ります。地に殺機を発すればが陸を走ります。人に殺機を発すれば天下はひっくり返ります。昔の王・王には徳があり、四方の海から来賓がありました。湯王武王は仁政を施し、八方の国から朝貢がありました。

臣は天朝(明朝)で戦争を起こす計画があると聞きましたが、小国(日本)にも敵から国を防衛する策があります。文を論ずるなら孔子孟子の道徳のような文章があり、武を論ずるなら孫武呉起の韜略のような兵法があります。また陛下が股肱の将軍を選抜し、精鋭の軍隊を起こして臣の国境を侵すという話を聞きました。水をたたえた沢があり、山と海に囲まれた国土は、自ら防備を整えているのに、どうして路上に跪くことを進んで受け入れるでしょうか? 従順でも必ず生き残れるわけではありませんし、逆らっても必ず死ぬわけではありません。賀蘭山の前で博打を行い、勝負を決めることがどうして臣にとって恐ろしいことでしょうか?

もし君主が勝利して臣下が負ければ、しばらくは大国の心を満たすことができますが、臣下が勝利して君主が負ければ、むしろ小国により恥をさらすことになるでしょう。昔から和議を講じることを上策とし、戦争を避けることを強いといったのは、人民を塗炭の苦しみから逃れさせ、艱難から救うためです。特に使いを送り皇宮に礼を尽くすところ、この点をご理解ください」

懐良親王の挑発的な返信を受けた太祖は激怒して日本を攻めようとしたが、元寇の失敗を反面教師として断念したという。

なお、上記のものと似た文章が『殊域周咨錄』にも記録されている[8]。前置きとして、倭国に将を派遣して恭順の意がないことを責めたところ、倭王(懐良)が不遜な文言の返書を出したとある。

人物

性格

傑物揃いの後醍醐天皇皇子の中でも、際立った軍事的才能を持ち、一代で領地無しから九州統一に迫るほどの覇業を築いた名将である。しかし、太宰府を征服しと交易を開始したという全盛期にあっても、遁世を願う和歌を詠んでいる(#和歌[9]。ここから、日本史研究者の森茂暁は、和歌の名門である二条派の血を引くだけあって、本来の性格は文人肌の内省的な人物だったのではないか、と推測している[9]

また、九州という中央から離れた地にあって、結果として和歌が2首しか現存しないために、懐良の和歌の能力については否定的な見解が古くからある[9]。しかし、森は、それはただ残らなかっただけで、母の二条藤子の優れた歌才を見る限り、実際は懐良も和歌の才能を持ち、もっと多くの歌を詠んでいたのではないか、と推測している[9]

生没年

懐良親王の生年は確実ではない[10]。しかし、正平3年/貞和4年(1348年)6月23日付の五条頼元文書(「阿蘇家文書」『南北朝遺文九州編三巻』2482)に、懐良が「成人」したとあり、森茂暁は当時の「成人」とは数え20歳ぐらいのことではないかと考え、逆算して元徳元年(1329年)と推測している[10]

没年については、天授7年/弘和元年(1381年)初頭に、母の三十一回忌として、妙見寺(熊本県八代市妙見町に寺跡)に宝篋印塔を奉納したものがあるため、この時期まで生存していたのは確実である[11]。これは、長らく埋もれていたが、大正5年(1916年)に、田口という人物が泉水を掘っている時に発見されたものである[11]

没年として広く伝わっているのは、弘和3年/永徳3年3月27日1383年4月30日)である[12]。しかし、森によれば、この説は根拠が弱いという[12]。これは江戸時代後期の熊本藩医田中元勝が「征西大将軍宮譜」(『肥後文献叢書』六、隆文館、1910年所収)で言い出したことだが、元勝が「万寿寺過去帳」なるものの内容を同好の士から口伝えで聞いたとするのが根拠となっており、元勝自身がその資料に当たった訳ではない[12]。さらに、昭和15年(1940年)に岡茂政が「万寿寺過去帳に就て―征西大将軍御薨去時日発見の唯一文書―」で、「万寿寺過去帳」なる文書は、豊後国万寿寺には最初から無かったことが指摘された[12]。懐良親王研究における古典である藤田明『征西将軍宮』も懐良親王の薨去記事を載せていない[12]


注釈

  1. ^ 鎌倉時代・南北朝時代の研究が進む以前は「かねながしんのう」と呼ばれることも多かった。詳しくは、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。
  2. ^ 時期については諸説あり。

出典

  1. ^ 栗林 1979, pp. 2–3.
  2. ^ 栗林 1979, p. 5.
  3. ^ 佐久間 1965, pp. 20–22.
  4. ^ 栗林 1979, p. 11.
  5. ^ 懐良親王御墓(八代市HP)”. 2015年1月12日閲覧。
  6. ^ 『明太祖実録』巻138, 洪武十四年七月戊戌条
  7. ^ 『明史』巻322, 日本伝
  8. ^ 『殊域周咨錄』第2巻東夷, 日本國
  9. ^ a b c d e 森 2019, pp. 293–294.
  10. ^ a b 森 2019, pp. 119–122.
  11. ^ a b 森 2019, pp. 306–309.
  12. ^ a b c d e 森 2019, pp. 270–272.
  13. ^ a b 森 2019, pp. 295–298.
  14. ^ a b 「後醍院系図」『諸家系図纂』所収


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