塔
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東洋の塔
言語学的知見からすでに紐解いたように、stupa、すなわち、何かを「積み上げること」とそのようにして造られた「土の塚」が、東洋の「塔」の文化的起源の主体である。 つまり、塔は元来、盛り土による塚のことであった。 もっとも、古代インドにおける饅頭型に盛り上げた土塚 stupa (ストゥーパ)の民俗学的起源などについては、いまだ詳らかにされていない[1]。
仏塔と仏舎利塔
この習俗は初期仏教にも容れられ、釈迦や聖者に縁(ゆかり)の品、遺体の一部(遺骨〈舎利〉、遺髪、歯など)といった、いわゆる聖なる記念品や遺品・遺物を土中に埋め、盛り土をした上で日干し煉瓦で周りを囲う建造物として始まっている。 釈迦の存命中、すでにそのようなかたちのストゥーパが造られていたことが、『十誦律』[10]の56巻に記されている。 造営したのは長者スダッタ[注釈 3]で、釈迦が諸国を遊行(ゆぎょう)する間、供養する機会を失う我が身を嘆き、せめて身近に縁の物を置かせてほしいと願い出て爪と髪を授かり、これらをストゥーパに納め、爪塔・髪塔として崇めたと伝えられる。 また、釈迦が入滅したのち、遺骨の所有を巡って有力者間で争いが起こったが、バラモン僧ドローナ(ドーナ)の仲介によって武力衝突は避けられ、遺骨は8つに分けてそれぞれが供養することとなった。遅参したモーリヤの一族には遺灰が譲られ、分配者ドローナには分配に用いた瓶が与えられた。 このようにして、10のストゥーパが、歴史的に間違いないとされる最初の「仏舎利塔」として各地に建てられることとなった[1]。
東アジアの仏塔
中国での仏塔の建立は、三国時代(3世紀頃)に始まる。 ここでは中国古来の楼閣建築の影響を受けて、インドのストゥーパとは大きく異なる重層の高層建築物として発展していった[1]。 しかしこの文化圏、中国とその強い影響下にあった東アジア文化圏(朝鮮・日本・その他、および、ここでは便宜上チベットなども含む)では、造形面での大きな変容とは対照的に、遺物を納める「器(うつわ)」としての仏塔の位置づけは踏襲されており、それも特色の一つである。
日本の仏塔
すでに述べたように、「塔」の字は元々は仏寺にあるものを指す言葉であった。 さらに、日本最初の本格的な仏教寺と推定されている飛鳥寺の伽藍(がらん)は、塔を中心とし、その東・北・西に金堂が配置されていた。 しかし、時代が下るに連れて塔は伽藍の前面に置かれるようになっていった。
木造仏塔
木造塔の建築様式としては、大きく分けて「多重塔」と「多宝塔」に分けられる。
多重塔
多重塔は、三重塔や五重塔に代表されるもので、平面上から見て四方形(円形や多角形もある)の空間を何層にも重ねたものである。 日本の多重塔の源流は、中国の楼閣であると考えられている。
塔の中心には「心柱」が置かれ、その周囲に柱を配置している。 頂部には「相輪」と呼ばれる銅または鉄でできた小塔が取り付けられた。
塔を支える心柱は、法隆寺の五重塔では地中2mほどに礎石を置き、その上に建っている(掘立て式)。 平安時代に入ると、礎石を地表に置いて、その上に心柱を乗せるようになった(地上式)。
さらに鎌倉時代以降は、心柱を最上層から第二層で止めるようにしたものが目立つ。 京都の海住山寺の五重塔がこの形式の現存する最古のものである。
江戸時代の寛永寺や日光東照宮の五重塔は、心柱を上から吊り下げる構造をとっている。 これは、木材の乾燥に起因した心柱の収縮と他の柱の収縮の差による歪みの発生を抑えるためと考えられている。
五重塔より多層で特に七重以上になると、木造は数が比較的少ない。妙楽寺(現・談山神社)の十三重塔が唯一現存する木造塔である。
752年(天平勝宝4年)、奈良の東大寺に当時最大となる高さ320尺(約100m)の七重塔が東西二基が建設された。何度か消失し、その度に再建されたが、室町時代以降はついに再建されなかった[注釈 4]。
また、1392年(明徳3年)には足利義満によって京の相国寺に七重塔が発願され、1399年(応永6年)に完成した。 高さ360尺(109.1 m)に及ぶこの塔[9]は史上最も高かった日本様式の仏塔であるが、わずか4年後に落雷によって炎上。再建を目指した義満が急死した後、息子足利義持が跡を継いで再建。応仁の乱も乗り越えて1470年(文明2年)10月3日の火災によって焼失するまでの数十年間、京の都を見下ろし続けた。[11]。
なお、法勝寺の八角九重塔は高さ840尺(約250m)と伝えられるものの、その信憑性は低いと言わざるを得ない。
多宝塔
多宝塔は本来、多宝如来と釈迦如来の2つの仏像を安置した塔のことである。 木造の他に石造のもの(長野の常楽寺多宝塔など)も存在する。 通常、一層目が方形で、二層目が円形をした二層形式のものが一般的であるが、その外観は一定していない。 中国では三層式が多く、日本でも六角三重塔のものが存在していた。
二層目の円形部分を支える柱を第一層にまで伸ばしたものを大塔形式と呼び、多宝塔と区別する場合もある。 空海が建立した高野山大塔(810年頃か)が最初と言われる。
石山寺の多宝塔は、鎌倉時代の1194年建立で、現存する木造多宝塔のなかで最古のものである。 根来寺の多宝塔(大塔)は高さ約36m。 現存する日本最大規模の多宝塔であり、唯一現存の大塔形式でもある。
石造仏塔
五輪塔(ごりんとう)は、密教での五大、すなわち地・水・火・風・空を体現した塔である。 日本独自の仏塔で、墓碑や供養碑としても広く使われている。
無縫塔(むほうとう)は、塔の最上部を楕円形に造った塔のことであり、縫い目がないことからこの名前が付いたといわれる。また、この形状から卵塔(らんとう)と呼ばれることもある。中国唐代の発祥で、日本に伝えられたのは鎌倉時代であったと考えられている。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、陀羅尼(だらに)と呼ばれた呪文を納めておくための塔であった。のち、墓碑や供養碑などに使われるようにもなった。法隆寺の絵にも描かれているため、古くから日本に伝えられていたものと考えられる。平安時代には木造の塔に陀羅尼を納めることもあったようであるが、鎌倉時代には石造に変わった。
題目塔(だいもくとう)は、南無妙法蓮華経と刻まれた、鎮魂を目的とする供養塔である。
東南アジアの仏塔
東南アジア文化圏では、元来のストゥーパはほぼ忠実に引き継がれ、中世時代の石造寺院の中核をなした。 しかしその一方で、造形面を見れば比較的原形に近いものの本質的に全く違った、パゴダの様式も生み出された。これは遺物を納める「器」ではなく、釈迦が住む「家屋」であり、信者が出入りする建築物に変化している。パゴダは英語では「仏塔」を指す語として広く用いられている(cf. en:pagoda)。
注釈
出典
- ^ a b c d 中村元編 『仏教語源散策』(第1版) 東京書籍、1977年、218-221頁(松本照敬著) :tupa の関連。塚の関連。初期仏教における塔についての記述。中国での仏塔の興り。
- ^ tower - Online Etymology Dictionary
- ^ a b c d 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、188頁。
- ^ a b c d e f g h 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、50頁。
- ^ a b c d e f 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、51頁。
- ^ a b c 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、52頁。
- ^ Claridge, Amanda 1998 Rome: An Oxford Archaeological Guide
- ^ a b c d e f g h i j k 堀越 宏一 「戦争の技術と社会」3.城と天守塔, 〜 15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史 ISBN 978-4-623-06459-5
- ^ a b c d 長さの比較資料:1 E2 m
- ^ cf. 律宗#日本の律宗
- ^ cf. 京都相国寺 - 日本の塔婆
- ^ a b c d e f 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、192頁。
- ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、192-193頁。
- ^ a b 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、193頁。
- ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、194頁。
- ^ “Study for Woolworth Building, New York”. World Digital Library (1910年12月10日). 2013年7月25日閲覧。
- ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、195頁。
塔と同じ種類の言葉
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