塔 塔の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 19:36 UTC 版)

東京都に存在する世界で一番高い"塔"、東京スカイツリー
「塔」の起源であるサーンチーストゥーパ

定義と語源

日本語の「塔」は、もともと仏教の構造物である仏塔を意味していたが、現代では様々な比較的高い構造物(塔状構造物)に対しても使用されており、建築基準法によって厳密な定義はされていない。

「塔」の語源

日本語の「」の語源はサンスクリット語)の स्तूपstūpa、ストゥーパ、意味: heap、…を積み上げる、蓄積する)に求められる。この語は古代インドにおいて、饅頭型に盛り上げた土ののことをも指すようになっていたが、仏教には今日で言うところの「卒塔婆」の意味で採り入れられた。stūpa は中国で「(古代中国語の発音 [*suːdtaːʔpʰaːl])」と音写漢訳され、やがて「窣()」が脱落して「堵坡(塔)」に変化したと考えられている。ただし、「堵坡(塔婆)」はサンスクリット stūpa のパーリ語形である tūpa (トゥーパ)が音写漢訳されたものとの説もある[1]。「塔」は、そのいずれかの形からさらに省略され、1文字で表されるようになったものである(現代中国語の発音は「ター、拼音: 」)。

日本では古神道における神奈備(かみなび)や磐座信仰(いわくらしんこう)が石塚信仰となり、仏塔と結びつき供養塔となった。墓の場合もあるが、祈念や祈願として「そこに宿る命」が荒ぶる神にならぬように、慰霊や鎮魂として祀ったものであり、五重塔などを模したものも多いが、ただの石版の場合もある。また祀られるものも食料として捕獲した魚や鯨であったり、包丁や人形などの器物(道具など)のものもあり、森羅万象に命が宿るとする神道の観念に基づくものとなっている。

日本における「塔」は、江戸時代までは、仏教寺の構造物のみを指す言葉として使用されていた。したがって、江戸時代前後の高層建造物、例えば、吉野ヶ里遺跡で再現される古代の(やぐら)や中世の城郭建築に見られる天守を一般に「塔」と呼ぶことはない[注釈 1]が、形式では塔のように建てられたものを層塔型と言うことがある。

しかし、明治以降に入ってきた西洋建築物の構成していた構造物の tower の対訳語として「塔」が使われるようになる。電波送信の高いアンテナや送電のための構造物も「塔」の字があてられるようになった。したがって、現在の「塔」の用法に厳密な定義が存在するわけではない。

なお、塔の助数詞は「基」であるが、これも仏塔由来と考えられる。また、助数詞として「層」なども使われることがある。

tower の語源

英語 tower[ˈtaʊ.ə(ɹ)]、タウア[注釈 2]〈慣用的な日本語表記:タワー〉)は、ドイツ語Turm (トゥルム)やフランス語tour (トゥール)、イタリア語 torre (トッレ)などと同様、ラテン語 turrem (トゥルレム)< turris (トゥルリス、意味: high structurepalatiumarx、高層建造物、(古代ローマの七つの丘の)大宮殿、城塞)に由来する[2]。それはさらに古く、古代ギリシア人エトルリア人を指して呼ぶところの Τυρρήνιοι (Turrēnoi、: Tyrrhenians、テュレニア人)という言葉に起源を見ることができる。また、漢字の「塔」と同様にサンスクリット語の stūpa との関連性が指摘されることもあるが、定かではない。

古代の塔

オリエント文明

チョガー・ザンビール遺跡のジッグラト(紀元前2000年頃か)
エドフ神殿のパイロン
紀元前2世紀頃の造営か)

古来から人類は高いものへの憧憬や畏敬の念を抱いてきた[3]。古代から中世にかけての塔状構造物にはメソポタミアジッグラト古代エジプトピラミッドオベリスク、さらに中世の教会堂の鐘楼などがあるが、これらはいずれも石や煉瓦を塊状に積み上げた塊状構造である[3]

塔の歴史は監視塔や宗教塔から始まったといわれている[3]

イェリコの監視塔

確認できる世界最古の塔は死海の北方約9kmに位置する古代都市イェリコにあった監視塔である[3]。イェリコは紀元前8000年頃の世界最古の集落とされており、約4haの面積に人口約2000人が生活していたとされている[4]。イェリコは年間を通じて温暖で豊富な湧水から食料資源も豊かであったため、周辺の平原や山岳地帯に暮らす未開民族の標的にされていた[4]。そのためイェリコでは住居群の周囲を石造りの防御壁で囲み、防御壁の内側には監視塔がたてられていた[4]。集落跡には現在でも直径10mほどの円塔が9mの高さまで残存しているが、この監視塔(望楼)がどのくらいの高さであったかは分かっていないものの明らかに監視目的で建てられたものであった[4]

ジッグラト

イェリコの防御壁や監視塔はシュメール文明のジッグラトに引き継がれた[4]。この地は年間降水量が少なく、農業用水をチグリス川とユーフラテス川に依存していたが増水の時期や水量が不規則で常に氾濫の危険にさらされていた[4]。また、地形も開放的であったため、周辺の山岳民族や遊牧民族に侵入される危険性も高かった[4]。このような環境から周辺環境の変化を把握するための大型の監視塔(情報塔)が作られた[4]

初期のシュメールのジッグラトは洪水を見張るための監視塔として建設されたが、のちに史上最古の宗教塔へと変容した[5]。紀元前4000年から3400年頃になるとシュメール文明では労働の分化や階層の分化が生じ、煉瓦の大神殿が築かれるようになった[5]。シュメールの各都市国家では、それぞれの守護神のもとに神権政治が行われていたが、主神殿は次第に高い位置に建立された[5]。人工的な丘に設けた層状の基壇上に神殿が設けられ、このような丘は人工の聖なる丘「ジッグラト」と呼ばれるようになった[5]

高塔建築の原型の一つとして著名なものに紀元前2100年頃の「ウルの第三王朝のジグラット」がある[5]。ウルの第三王朝のジグラットは3層の基壇からなり、最上層に月の神ナンナルの拝殿が建てられていた[5]。各層の表面は焼成煉瓦、内部は土と日干し煉瓦で築かれ、テラスには樹木が植栽されていた[6]

さらに紀元前562年には新バビロニア王国のネブカドネザル王がジグラットを再建したが、その淵源はウルのジグラットにあるといわれている[6]。旧約聖書の『創世記』には、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせようとする野望の実現と、それに対して主の与えた罰の寓話である、バベルの塔が登場する。このバベルの塔のモデルはネブカドネザル王のジグラットであるとする説がある[6]

古代エジプトのパイロン

古代エジプトでは、神殿の門が2つの塔に挟まれたかたちをとっていた。 この形式をパイロン(塔門)と呼ぶが、現在でもルクソール神殿エドフ神殿など主な神殿遺跡でそれらを確認することができる。

また、古代ギリシア人が「オベリスク」と呼び、後世、ヨーロッパ社会でモニュメントとして転用されることともなる、四角錘の記念塔が神殿の入り口などに設置された。

これは太陽神信仰と関係し、聖なる石「ベンベン」が発展したものとも考えられている。

地中海文明

風の塔(アテネ, BC1世紀)

古代ギリシア

古代ギリシアヘレニズム期の地中海地方では、灯台や見張塔を除いてあまり塔は造られなかった。 世界の七不思議にも数えられるアレクサンドリアの大灯台紀元前3世紀頃)が建てられたのはこの時代である。灯台の全高は約134m。大理石造りであった。この塔は1,650年余の長きを地中海に臨む一大建築物であったが、14世紀に2度の地震に遭って崩壊したのを機に要塞建設の資材に転用されるかたちで消滅した。また、紀元前1世紀にはローマの影響下にあったアテナイに、時計塔としても使われた風の塔が建設されていることからも分かるように、決して塔建築がなかったわけではない。

アウレリアヌス城壁(ローマ, 3世紀)
ヘラクレスの塔(スペイン, 2世紀)

古代ローマ前期(王政ローマ・共和政ローマ期)

古代ローマがイタリア中部で建国され、ローマ人はイタリア南部のサムニウム人、シチリアマグナ・グラエキア)のギリシア人、イタリア中部のエトルリア人、イタリア北部(ガリア・キサルピナ)のガリア人などの土地を併合し領土を拡大していった。その過程で得たエトルリアやギリシアの高度な建築技術も取り入れて古代ローマの建築技術は発展していった。また第二次ポエニ戦争ではローマの領土深くまでカルタゴ軍に蹂躙され、内乱の一世紀には内戦で国土が荒廃した。この時期、都市は自己防衛のため城壁で囲まれた城郭都市となるところもあった。またローマ軍団もその駐屯地を防塁で囲っていた。城壁や防塁の角や出入り口(城門)には、一時的であれば櫓が、恒久的な使用を見込めるものであれば塔が配置された。この時期の首都ローマは全周11kmのセルウィウス城壁により守られていた。また、戦場では移動式の木製攻城塔が使われることもあった。

古代ローマ後期(帝政ローマ期)

古代ローマの全盛期になると、もはや侵入できる外敵が存在しなくなり、都市機能の拡大に合わせて城壁を拡大していく必要がなくなった。ローマ帝国の防衛は国境線に築かれた防壁リメス並びに軍団および補給物資を迅速に投射できるローマ街道などの輸送路の維持によって行われていた。しかしながらローマ帝国が衰退する4世紀頃以降、ゲルマン人侵入に対抗するため都市に城壁(囲壁)を築いて防衛する必要性が生じた[7]。ローマ帝国最盛期には城壁を持たなかった首都ローマも、定間隔で監視塔を組み込んだ全周約19km・高さ8m・厚さ3.5mのローマン・コンクリートで造られたアウレリアヌス城壁で防御されることになった。

このように、ローマ人が塔を築くのはひとえに軍事上の目的からであり、国家の拡大期に、また、常に異民族との衝突が予想される国境地帯では盛んに建設されている。


注釈

  1. ^ ただし、天守を英訳するときに tower をあてることがある。
  2. ^ 仮名転写はあくまで便宜上の表記であり、正確なものではない。以下同様。
  3. ^ 須達多(しゅだった)、須達(しゅだつ、すだつ)。常に孤独な者や貧しい者に慈善を施したため、「給孤独(ぎっ-こどく)長者」と尊称される。
  4. ^ 1970年日本万国博覧会においてこの塔は、古河パビリオン(鉄筋コンクリート製)として再現されている。
  5. ^ 後に324.0m

出典

  1. ^ a b c d 中村元編 『仏教語源散策』(第1版) 東京書籍、1977年、218-221頁(松本照敬著) :tupa の関連。塚の関連。初期仏教における塔についての記述。中国での仏塔の興り。
  2. ^ tower - Online Etymology Dictionary
  3. ^ a b c d 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、188頁。 
  4. ^ a b c d e f g h 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、50頁。 
  5. ^ a b c d e f 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、51頁。 
  6. ^ a b c 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、52頁。 
  7. ^ Claridge, Amanda 1998 Rome: An Oxford Archaeological Guide
  8. ^ a b c d e f g h i j k 堀越 宏一 「戦争の技術と社会」3.城と天守塔, 〜 15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史 ISBN 978-4-623-06459-5
  9. ^ a b c d 長さの比較資料:1 E2 m
  10. ^ cf. 律宗#日本の律宗
  11. ^ cf. 京都相国寺 - 日本の塔婆
  12. ^ a b c d e f 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、192頁。 
  13. ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、192-193頁。 
  14. ^ a b 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、193頁。 
  15. ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、194頁。 
  16. ^ Study for Woolworth Building, New York”. World Digital Library (1910年12月10日). 2013年7月25日閲覧。
  17. ^ 坪井善昭ほか『“広さ”“長さ”“高さ”の構造デザイン』建築技術、2007年、195頁。 






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