在日朝鮮人の帰還事業 「地上の楽園」の現実

在日朝鮮人の帰還事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 05:54 UTC 版)

「地上の楽園」の現実

新潟赤十字センターでの出国手続き

帰国手続きをする在日朝鮮人

帰還者たちは日本各地の3,655箇所に設けられた日本赤十字社の窓口(多くは、地方自治体が窓口となった)で帰国申請の手続きをおこなった後、特別列車に乗って新潟に設けられた赤十字センターへ向かった。

元米軍キャンプを転用した新潟赤十字センターは、広さが約9.2ヘクタールあり、宿舎や事務棟のほか、診療所・売店・銀行などが用意され、帰還者たちが出国までの4日間を過ごした。帰還者たちは広い講堂のような宿舎で元居住していた都道府県単位に集められ[38]、在日朝鮮人の料理人によって調理された朝鮮風の料理が供された。初代センター長を務めた小沢辰男は、反対派の妨害工作にもっとも神経を使ったという[39]

また、赤十字センターでは、国際赤十字の立会いのもと、帰国が自由意志によるものかを確認する面接が行われ、その後に出国の手続きが行われた。

北朝鮮への上陸

北朝鮮が高度に閉ざされた体制をとっており、自由な往来が不可能であること、領域内において外国人の自由な活動を許していないこと、北朝鮮の文書資料の入手に難があることから、帰還者たちがどのように処遇されたかは脱北者などの証言からしか詳細には把握できていない。北朝鮮における身分制度である出身成分では最下層の「敵対階層」に分類され[40]、また「動揺階層」として差別された[41]。しかし、日本共産党の党籍を持っていたために「核心階層」となった者もわずかながら存在する。

ボトナム通りの記念碑(新潟市中央区

初期の帰国船は、ソ連軍艦を改造した貨客船「クリリオン」「トボリスク」が使われた。1960年(昭和35年)の第9次帰国船で北朝鮮に渡り、1963年(昭和38年)に停泊中の日本船で密航し日本に戻った金鍾国は、船内では白いご飯がおかわり自由で、肉・魚・野菜がふんだんに使われた食事が供されたことや、菓子や煙草はいくらでも取って構わなかったと手記に書いている[42]

一方、1960年(昭和35年)に単身で北朝鮮に渡った青山健煕は、ソ連船「クリリオン」がたいへん粗末な船で船内に売店もなかったこと、悪臭のする米に閉口して一口しか食べられなかったこと、清津港の粗末な設備・老朽化した建物、「万歳」で出迎えてくれた数百人の女学生の身なりの粗末さと全員無表情で疲弊しきっている様子、列車に乗ってから目撃した物資欠乏と盗みの横行、移動中に出された嫌な匂いを放つ弁当を食べる帰国者がほとんどいなかったこと、その弁当を汽車で同行した北朝鮮の役人がうまそうに平らげていたこと、これらをみて、「楽園」の現実を知り、希望はすぐに幻滅に変わったことを記している[43]。また、 これに対し、同時期に帰国船に乗り、1994年(平成6年)に脱北して韓国に亡命した鄭箕海は、帰国船の食事は、後から思えば北朝鮮ではご馳走だったが、ご飯も肉もすえた匂いがして食べる気がしなかったと記した[44]

帰還者は清津から北朝鮮に上陸すると、招待所と呼ばれる施設に一時的に滞在した。歓迎行事の後に経歴書や希望配置を北朝鮮当局に提出し、社会見学に数日を充てた後に、配置先を決める面接を受け、各地に散っていった。帰国事業の最盛期には毎週のように1,000人規模の帰還者が北朝鮮に帰還していたことから、佐藤久は「本人たちが納得できるような配置がはたしてどれだけ行われえたかは、容易に想像できよう」と否定的に捉えている[42]。住宅事情も良くなかった。北朝鮮当局は宣伝雑誌等を通じて、近代的な住宅や生活様式を紹介していたが、ほとんどが宣伝の域を出ないものだった[45]。ただし、住宅事情については、北朝鮮においては朝鮮戦争の停戦から帰還事業の開始まで6年余しか経っておらず、日本でも1968年(昭和43年)までは総住宅数が総世帯数を下回っていた。

農村に配置された帰還者が、自らにあてがわれた住居を「お世辞にも立派な代物とは言えなかった」と評している手記がある[46]。そもそも住宅の不足自体が、当時の北朝鮮社会にとって課題だった。また、社会主義国でよく見られる生活物資の慢性的な(あるいは決定的な)質と量の不足も、帰還者たちを戸惑わせた。物資の不足を日本にいる親族から補った者もいた。彼らにとっては生存の手段に他ならなかったが、異国で激しい民族差別を受けて生活苦に喘いでいたとされた人々が、このような手段で北朝鮮にないものを手にすることで、現地住民との間に溝を作ったようである[47]。帰還者は妬みと差別の意味を込めて「帰胞」(帰国同胞)と呼ばれ、潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれた。帰還者たちは、居住の自由や就職の自由、すべての自由が奪われていた。

帰国者差別

社会主義体制下の北朝鮮社会にとっては、帰還者たちは朝鮮半島にルーツを持ちながらも、アメリカ風の資本主義の生活を肌で知り、半ば日本化された異質な集団だった。体制への不満・批判に対し厳格な北朝鮮では、このような行動は手ひどく扱われる原因となったと考えられている[47]。人民を出身成分で分類して支配していた北朝鮮社会では、日本で暮らしていた在日朝鮮人は出身成分が悪いとされた[48]強制収容所に送られた帰還者も多く、消息・安否が不明とされている者も少なくない[49]。「里帰り嘆願書」に署名した日本人夫・日本人妻とその家族は、電気も通らない僻地に追放されるか、入ったら2度と出ることのできない「管理所」に送られた[50]。署名していなくても、親類が署名したら連座して学校を退学させられ、山奥での原始的な生活を余儀なくされる学生がいた[50]

北朝鮮からの手紙は検閲されていたが、切手の裏側にメッセージを隠したものもあった。

村から外出の自由なし。兄いさんわ、ここへくるべからず。だが母わも一度会うつもりだと言う。富山の妹さんもこないように[51]

多くの人々が輝ける祖国のことを聞き、まだ見ぬ祖国に対して憧れを抱いたが、現実はそれを裏切った。やがて、在日朝鮮人の間や日本国内においても次第に北朝鮮の実情が明らかになるにつれ、帰還者の数は激減していった[52][53]。また日本の経済発展が進むことによって、在日朝鮮人が生活苦により北朝鮮へ向かう理由も失われた。現に脱北して韓国で一定の期間を過ごした後、韓国国籍のパスポートで日本に再渡航した者も少なくなかった。

1984年(昭和59年)、金元祚は『凍土の共和国』を出版し、祖国訪問団に参加した日記という体裁で、生活に窮乏する帰還者たちの姿を描いた。その中では、単なる生活物資の工面に留まらず、よりよい配置や居住地の提供に誘われて、帰還者たちが所属する事業所で必要な資材を、祖国を訪問した在日朝鮮人に無心する場面がある。

朝鮮総連の幹部だった韓光煕によれば、在日朝鮮人のなかではエリート集団と自他にみとめる学習組も、本国の朝鮮労働党からすれば末端のフラクション(分派)にすぎず、労働党幹部からすればようやく人として認められるかどうかという程度の存在にすぎなかったという[54]。強制収容所(管理所)の警備隊員だった安明哲の証言によれば、帰国同胞はしばしば「スパイ」の嫌疑をかけられ、収容所内では特に過酷な処遇を受けており、帰国同胞の女性がなぶり殺しにされる現場にも遭遇している[55]。彼は、保衛員や戒護員が政治犯たちを殴りつけ、鞭打ち、怒鳴り声をあげるのを毎日聞いているが、それはだいたい夕方の早いうちから始められ、夜明けまで続けられた[55]。ある時、50歳くらいの女性の帰国者が鞭打たれ、最後には自らへの呪詛と叶えられるはずもない心情をたどたどしい朝鮮語で戒護員にぶつけるのを聞いている[55]

ああ、私はどうして日本から北なんかに来たんだろう。なんでこんなことが見通せなったんだろう。夫にくっついて子供まで連れて…故郷だからと思ってついてきたのに、私がなんだってスパイにされなきゃならないんだ。日本の親戚たちは私たち家族がどんな目に遭ってるかも知らず、よい暮らしをしてるとばかり思っているのに。
おい、犬畜生! うちの家族を日本にまた送り返せ! それができないと言うなら全員殺すなりしろ! もうこれ以上、こんなふうに生きるのはいやだよぉ…[55]

彼女はそう叫んだあと、警棒で殴られ、絶命した[55]。その後、保衛部長が日章旗日本刀、天皇から下賜されたという勲章、免許証、下駄着物などを示しながら、政治犯に対する敵愾心を緩めることの決してないよう、訓示を述べたという[55]。青年時代に部落解放運動に身を投じた経験のある萩原遼は、北朝鮮は「日本の部落差別よりも何百倍もひどい差別政策」を国家の政策として採用していると指摘している[56]

1997年(平成9年)11月、北朝鮮へ渡った日本人配偶者を対象として、初めての里帰り事業が行われた[57][58][59][60][61]

日本からの帰国者に対しては、北朝鮮の国家安全保衛部による監視制度と根強い差別がある[62]

訴訟

2001年(平成13年)、北朝鮮への帰還事業において朝鮮総連が正しい説明を行わなかったとして、韓国に在住する男性が朝鮮総連を相手取って慰謝料を求める訴えを日本の東京地方裁判所に起こした。この男性は、1961年(昭和36年)に北朝鮮に渡ったが現地での生活に失望し、1年半後に軍事境界線を越えて韓国に脱出していた[63]。裁判は1審、2審ともに民法上の時効が成立しているとして請求を認めず、2004年9月、最高裁判所も上告を棄却して原告の訴えを退けた[64]

2008年(平成20年)6月、日本在住の脱北者の女性が朝鮮総連を相手に損害賠償を求める訴訟を大阪地方裁判所に起こした[65]。原告女性によると、「北朝鮮は地上の楽園」などという朝鮮総連の「嘘の宣伝」により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働や拷問などを受けたことを挙げ「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も強制収容所の中で必死で生き延びようとしている人がいる」と訴えた[66]。しかしこの訴訟についても、大阪地方裁判所は2009年11月30日に、既に帰還から40年以上経過し、損害賠償請求権が既に消滅しているとして、原告女性の請求を棄却した[67]

2018年(平成30年)には、脱北者の5名が北朝鮮の最高指導者である金正恩を被告として、帰還事業に関して損害賠償を求める訴訟を起こした。東京地裁は2022年(令和4年)3月、北朝鮮が「地上の楽園」として宣伝したことについて「事実と異なる勧誘だった」と原告の主張を認め、日本で行われた北朝鮮の勧誘行為は日本の法律で裁くことができるとしたが、時効を理由に損害賠償請求は退けた[68]東京高等裁判所2023年(令和5年)10月、北朝鮮による「継続的不法行為」を認め、訴えを退けた1審判決を取り消し、審理を東京地裁に差し戻した[69]


注釈

  1. ^ 1959年時点での「韓国」籍は約13万人であった[1]
  2. ^ 日本のハンセン氏病施設に当時750人余りの朝鮮人がいて、その内150人余りが帰還を希望していたが、北朝鮮は受け入れを拒否した[12]
  3. ^ 1950年代から1960年代初頭、北朝鮮はソ連よりの豊富な経済援助により重工業ダム建設などのインフラ整備において経済的に韓国を圧倒していた。
  4. ^ 1955年における在日朝鮮人の平均保護率は24.06%で、日本人(2.15%)の11倍以上だった[25]。1956年から57年にかけて法務省が実施した生活保護削減[25]後の1958年10月時点でも在日朝鮮人の平均保護率は13.3%で、日本人(1.8%)の7倍以上だった[26]
  5. ^ 青山健煕は、朝鮮赤十字会が世界各国の赤十字社のような人道主義にもとづいた民間団体ではなく、朝鮮労働党統一戦線部に帰属する工作機関であることを明らかにしている[72]。青山は、この事実を2002年(平成14年)6月20日に日本外務省にレポートとして提出した[73]

出典

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  13. ^ 「かるめぎ85号」
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  18. ^ 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)p.49
  19. ^ 朴正鎮「北朝鮮にとって『帰国事業』は何だったのか」(2005)p.206
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  21. ^ 高崎「寺尾五郎の北朝鮮論」(2005)p.272
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  23. ^ a b c 高崎「帰国問題の経過と背景」(2005)pp.29-31
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  73. ^ 青山『北朝鮮 悪魔の正体』(2002)pp.308-311





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