伊勢物語
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諸本
現在『伊勢物語』の本文として読まれているものは、藤原定家が天福2年(1234年)に書写した「天福本」と呼ばれる系統の写本をもとにしたもので、刊行される単行本や文庫本、また学校等で使われる教科書類での引用など、この「天福本」の本文によらぬものはないといってよい。しかし『伊勢物語』の伝本については以下に述べるように他にもいくつかの系統があり、『伊勢物語』の成立が現在に至るも解明されていない状況においては、伝本についての研究はないがしろにできないものといえよう。その系統について説明すると大きく五つに分類できるといわれている。
(1) 定家本系統 … 藤原定家が書写したとされる本で、125段・和歌209首からなる。現存する『伊勢物語』の写本の実に95%以上がこの系統に属するといわれている。定家本はその奥書によって、さらに三つの系統に分けられる。
- (A) 流布本(根源本)系統 …「抑伊勢物語根源…」に始まる奥書を持つ。定家はその生涯で何度も『伊勢物語』の書写を行っており、この根源本と呼ばれるものは、定家が書写したものの中では比較的早くできたものといわれている。根源本系統は現在までの研究によって、さらに数種の系統に細分化されることが明らかになりつつあり、どれぐらいの系統に細分化できるかについては学者によって異なるところであるが、さらに研究が進むことが期待される。しかし定家自筆の根源本は現在ひとつも残っていない。天理大学附属天理図書館蔵伝為家筆本、九州大学蔵伝為家筆本など鎌倉期の転写本があるが、天理図書館蔵伝為家筆本の末尾には他本(小式部内侍本〈狩使本〉ではないかといわれる)から採ったという18章段が付加されている。
- (B) 天福本系統 …「天福二年正月廿日已未申刻…」に始まる奥書を持つ。定家自筆本は江戸時代、火災に遭い焼失したという。三条西家旧蔵本(現在は学習院大学蔵本)などがある。
- (C) 武田本系統 … もとは冷泉家に伝わる定家自筆の本であったが、様々な人の手を経たのち武田伊豆入道紹真が所持し、その後も若狭の武田家が所有していたところからこの名がつけられた。「合多本所用捨也…」に始まる奥書を持つ。武田本も定家自筆のものは江戸時代に消息を絶っており、現在残っているのはその転写本である。山田清市は天福本と武田本の本文を比較し、天福本には4箇所において誤写とみられる部分が存在するのに対し、武田本には本文における欠陥がないことを指摘している。
(2) 古本 … 定家本とほぼ同じ内容。系統的には定家本に先行するものといわれる。ただし、初期の無奥書定家本である可能性も否定できない点は注意しなくてはならない。
(3) 真名本 … 文字どおり、「真名」(漢字)で書かれた伊勢物語。初段から終焉まで125段・208首からなる。定家本と近いが内容に多少出入りがある。用字法などから鎌倉時代以降、あるいは南北朝時代以降の成立であろうといわれている。
(4) 広本系統
- (A) 大島本 … 定家本に見えない章段を1段持つ代わりに、定家本115~117段が欠落しているため、章段数は123段である。また、巻末に皇太后宮越後本からの12章段と小式部内侍本からの24章段を併せ持つ。現在千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵。
- (B) 日本大学図書館本、阿波国文庫蔵本、谷森本、神宮文庫本 … 134段。初冠から終焉まで119段、それ以降に業平自筆本から採ったという14段を付記。
- (C) 一誠堂本 … 97段。ただし、巻末に小式部内侍本の13章段を持っている。
- (D) 泉州本 … 136段。定家本にはない10章段を持っているが、末尾は定家本125段にあたる部分となっている。また、第30段に返歌を載せた形式のものを末尾近くに再出させる。この本は戦災で焼失したがそれ以前に翻刻したものがあり、中田武司『泉州本伊勢物語の研究』(1968年、白帝社)にその本文が収められている。
(5)朱雀院塗籠本 … 奥書に「此本者高二位本、朱雀院のぬりごめにおさまれりとぞ…」とあり、高階成忠本か。初冠から終焉まで全115段。定家本にある11章段をもたず、定家本にはない1章段を持つ。現在は本間美術館(山形県酒田市)に所蔵される。
この他に注目すべき伝本としては通具本がある。この本は巻末に、まず定家本の流布本系統にある「抑伊勢物語根源…」の文章に続き、「堀河大納言通具」(源通具)の本に定家本でもってこの本を書写校合したという意味の奥書があるのでそう呼ばれる。本文は125段、205首。88段以降の章段の順序が定家本とは食い違う部分があり、さらに広本系統の本文を含むが、ほかに上にあげた5系統のいずれにもない本文も含む。古筆了佐の鑑定があり、それによればこの写本の筆者を二条為氏としているがその真偽についてはともかくも、鎌倉時代を下るものではないという。現在は鉄心斎文庫・伊勢物語文華館に所蔵される。
以上、五つの系統の伝本は全て初冠の章段で始まり 、「つひにゆく」の章段で男の死によって終焉を見る「業平の一代記」の形をとっていることにより、「初冠本」とも呼ばれている。このほかにも、男が伊勢へ狩の使いに行って斎宮と密通する段(69段)から始まり、「忘るなよ」の章段(11段)で終わる「狩使本」があり、それを小式部内侍が所持していたという伝承がある。これは清輔の『袋草紙』や顕昭の『古今集注』に記されているが、両者ともその実物を見たわけではない。現在では「書名の由来を説明するために後から作られた」という説もある。藤原定家はこの本を「狼藉左道」、すなわち許すべからざる偽書であると非難しており[注 7]、伝本も確認できない[注 8]。また、古くは「初冠本」と「狩使本」のほかに「業平自筆本」なるものがあり、「名のみたつ」の43段で始まり「つひにゆく」の125段で終るものであったと伝わるが、これも現存しない。
結局、伝本に関しても、完本として現存するのは鎌倉時代以降のものばかりであり、それより以前に遡るものはわずかな古筆切を別にすれば皆無である。『伊勢物語』の原典に迫ることのできる資料は何一つないが、ただ伝本の多さから、いかにこの作品が親しまれ、愛されてきたのかは十分窺い知ることができる。
注釈
- ^ 東下りの途上にある男(※主人公)の一行は武蔵国と下総国の間を流れる隅田川を船で渡る。果てしなく遠くまで来たものだと皆が心細さを感じつつ都を恋しく思っていると、鴫(しぎ)ほどの大きさの鳥が水面を気ままに泳ぎながら魚を獲っているのが見えた。都では見ない鳥なので船頭にその名を訊いてみると、「都鳥(みやこどり)」だという。そこで男は次のように詠んだ。
それを聴いて船に乗っている人は一人残らず泣いてしまった。
- ^ ただし能の『井筒』では、この段の主人公は業平と同一視される。
- ^ この点が、同じく歌物語に属すとされながら、実在人物へのゴシップ的興味を前面に押し出している『大和物語』との顕著な相違点である。
- ^ 伊勢物語の重要な材料の一つに業平の歌集があったことは想定される。しかし明らかに『古今和歌集』との関係が強い章段も見られ、業平歌集と『伊勢物語』とは、一応別物であって単に筆を加えた物ではなく小説として書かれているのであり、古来根強く云われた業平の作という説は、近年[いつ?]は通用していない。[13]
- ^ 在原業平一門、源融を中心とする歌人仲間、伊勢、紀貫之等が擬せられている[14]。折口信夫(歌人・釈迢空)等は貫之作者説をとっていた。
- ^ ただし、北村季吟は『枕草子春曙抄』で、これを『語』第84段の「しはすばかりにとみのこととて御ふみあり」に関連付けて解釈し、「急用」の意であるとしている[16]。
- ^ 根源本奥書に「…後人以狩使事、書此物語之端。其本、殊狼藉左道物也。更不可用之」(九州大学所蔵伝為家筆本)とあり、また根源本によっては「伊行所為也」ともある。「伊行」とは藤原伊行のことで、この藤原伊行が「狩使本」の流布に関わっているという主張であるが、その真偽については定かではない。
- ^ ただし現在、東京国立博物館には『伊勢物語絵巻』三巻(摸本)が所蔵されているが、本来20段ほどのその章段の順序は125段本とは大きく相違し、冒頭には狩の使の段(69段)を置くことから、現存しない「狩使本」をもとにしているのではないかといわれている[20][21][22]。この絵巻は江戸時代の狩野派の絵師、狩野養信らによる摸本であるが、その原本は鎌倉時代に遡るものとされる[20][21][22]。
出典
- ^ 山下-春章, 07 と[09] MFA ※良質画像もあり.
- ^ a b c d e 小学館『デジタル大辞泉』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d e 三省堂『大辞林』第3版. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 平凡社『百科事典マイペディア』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g 旺文社『旺文社日本史事典』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d 鈴木日出男、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ a b c d e f 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “在五物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ “勢語”. コトバンク. 2020年5月26日閲覧。
- ^ 河地修 (2010年8月24日). “第12回『伊勢物語』作品論のために(一)- 伊勢物語論のための草稿的ノート”. 個人(研究者)ウェブサイト. 2020年5月27日閲覧。
- ^ 大津 1982 [要ページ番号]
- ^ 参考:雨海 1987 [要ページ番号]
- ^ 山下-春章, 30 ま[82] LACMA ※良質画像もあり.
- ^ a b c d 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “僻の物語”. コトバンク. 2020年5月27日閲覧。
- ^ 三省堂『大辞林』第3版. “井筒業平河内通”. コトバンク. 2020年5月27日閲覧。
- ^ 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “競伊勢物語”. コトバンク. 2020年5月27日閲覧。
- ^ 高樹のぶ子さん×林望さん 伊勢物語と源氏物語の魅力 小説「業平」刊行 いま古典を読む意義語り合う『日本経済新聞』電子版(2020年6月12日)2020年8月6日閲覧
- ^ a b 山田 1966 [要ページ番号]
- ^ a b 伊藤 1984 [要ページ番号]
- ^ a b 田口 2003 [要ページ番号]
- ^ “勢語臆断”. コトバンク. 2020年5月27日閲覧。
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