1970・80年代
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「日本の慰安婦問題」の記事における「1970・80年代」の解説
初期ウーマン・リブの運動家田中美津は1970年の著作で「従軍慰安婦」の「大部分は朝鮮人であった」、「貞女と慰安婦は私有財産制下に於ける性否定社会の両極に位置した女であり、対になって侵略を支えてきた」と記述している。 1973年に千田夏光の『従軍慰安婦』が刊行され、慰安婦を民族ごとに分けて記述した。千田は日本人の慰安婦は自主的な売春婦であり、韓国人の慰安婦を売春を強制された被害者とした。千田の著書は、日本キリスト教婦人矯風会の高橋喜久江会長の注目を受けた。産経新聞によると、高橋は慰安婦の社会問題化に関し、「私も火付け役をした」と自負したとされ、高橋は千田の著書を韓国に紹介するなどしている。千田の著作に関して、いくつかの立場から疑問が呈されている。(千田夏光#著作『従軍慰安婦』参照) 1976年には金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』が出版され、その中で慰安婦の総数を20万人とした。 元『東亜日報』編集局長の宋建鎬(ソン・ゴンホ)は1984年、著書『日帝支配下の韓国現代史』で、挺身隊として動員された女性は20万人であり、そのうち5万人から7万人が朝鮮人であったとしている(千田夏光#朝鮮人慰安婦強制連行「20万」説参照)。
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1970・80年代
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「バットマンの映画作品」の記事における「1970・80年代」の解説
1970年代後半になるとバットマン人気は衰えていた。CBSは『Batman in Outer Space』の映画の製作に興味を抱いていた。1979年4月、マイケル・ウスランとベンジャミン・メルニカーがDCコミックスからバットマンの映画化権を購入した。ウスランはダークでシリアスなバットマンを作ることを望んでいた。リチャード・メイボームを脚本、ガイ・ハミルトンを監督とするために近づいたが、2人はオファーを断った。また、映画スタジオは1960年代のテレビシリーズのような『バットマン』を求めていたため、ウスランの売り込みは難航した。映画化を断ったものの中にはコロンビア ピクチャーズとユナイテッド・アーティスツも含まれていた。 失望したウスランは映画界に対し、自分のバットマン映画のビジョンを理解してもらうために『Return of the Batman』と題した脚本を書いた。ウスランはその脚本のトーンと後に出版された『バットマン: ダークナイト・リターンズ』を比較した。1979年11月、プロデューサーのジョン・ピーターズとピーター・グーバーがプロジェクトに参加した。4人のプロデューサーたちは『スーパーマン』(1978年)の後に映画を開発するのが最善であるとした。ウスラン、メルニカー、グーバーは『バットマン』をユニバーサル・ピクチャーズに売り込んだが、スタジオは断った。スタジオは決まらなかったが、1981年末、プロジェクトが1500万ドルの製作費で発表され、そしてワーナー・ブラザースが受けることに決まった。 1983年6月、トム・マンキーウィッツは、バットマンとディック・グレイソンのオリジンに焦点を当て、ジョーカーとルパート・スローン(英語版)がヴィランとなり、シルバー・セント・クラウド(英語版)が恋人となる『The Batman』の脚本を完成させた。マンキーウィッツのそれはスティーヴ・エングルハート(英語版)によるリミテッドシリーズ『Batman: Strange Apparitions』(ISBN 1-56389-500-5)からインスパイアされている。『Strange Apparitions』でエングルハートと共同したコミック画家のマーシャル・ロジャース(英語版)がコンセプトアートのために雇われた。『The Batman』は2000万ドルの製作費により、1983年末から1985年半ばのあいだに公開されると発表された。元々ウスランはバットマン役には無名の役者、ジェームズ・ゴードン役にウィリアム・ホールデン、アルフレッド・ペニーワース役にデヴィッド・ニーヴンを希望していたが、ホールデンが1981年、ニーヴンが1983年に死亡し、実現不可能となった。マンキーウィッツの脚本はアイヴァン・ライトマン、ジョー・ダンテを含む多くの映画製作者に紹介された。9名の脚本家がそれぞれ脚本を書き直したが、そのほとんどが『Strange Apparitions』に基づいていた。しかしながらプロジェクトを動かすのに使われていたのはマンキーウィッツの脚本であった。
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1970-80年代
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1970年代に入ると、都城市に市外から大型店が進出し、市外資本との競合時代が始まった。まず進出してきたのが、都城駅前土地区画整理事業の完成を待っていた橘百貨店都城店(売場面積10,000m2。8F建て、屋上には回転展望レストラン)と、区画整理区域の東に隣接する首藤製糸の用地の半分を購入したダイエー都城店(都城ショッパーズプラザ、現・イオンモール都城駅前。オープン時の売場面積11,921m2)である。中央通においても、それまで2階建ての店舗で営業していた寿屋都城店が、都城大丸の道路向かいに店舗ビルを新築移転した(売場面積12,464m2)。これに対抗して、都城大丸は売場面積を14,615m2に(5Fから8Fに増築、エレベーターガール付きエレベーター2機、6Fまで上下エスカレーター設置)、ナカムラデパートも13,037m2に増床し(3Fから5F建てへ。上下エスカレーターを5Fまで設置)、迎え撃つ態勢を整えた。NHKの「激戦地を探る」にて全国一の大型店激戦地区として放送された程の盛況ぶりであった。 これら店舗の内、最も早く撤退したのは橘百貨店都城店で、わずか数年間の営業であった。閉店が決まった後、店舗の引き受け手が探され、最終的に旭化成サービス(本社:延岡市)が進出することとなり、1975年10月に開店した。その後、約20年間にわたり、都城大丸、ナカムラデパート、寿屋都城店、ダイエー都城店、旭化成サービス都城店の5店が競い合う状況が続いた。この段階で最も繁栄していたのはダイエーで、その最大の武器は、800台前後と推定される大規模な無料駐車場であった。旧橘百貨店を受け継いだ旭化成サービスには、十分な駐車場がなかった。中央通りにある3大型店のうちでは都城大丸が最も広い駐車場を有していたが、規模的にダイエーには全く及ばず、駐車には商品券を購入すること等が必要であった。中心市街地では無料駐車を許容すると店舗に関係のない無断駐車が増えやすいためである。
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1970~80年代
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「サイエンス・フィクション」の記事における「1970~80年代」の解説
日本万国博覧会が大阪で開かれた(1970年)こともあって、1970年代には科学全般に対する世間の関心が高まった。小松左京の『日本沈没』(1973年)がベストセラーになり、1974年には従来の国産SFアニメに比べて本格的な設定が施された『宇宙戦艦ヤマト』がTV放映された。1970年代後半には、映画『スター・ウォーズ』の日本公開(1978年)などもあり、日本においてSFが世間から注目を集めた。一方でSF作家が他分野へ進出するようになり、筒井康隆が「SFの浸透と拡散」と表現した日本SFの変質の始まりでもあった。 また、この年代を中心に眉村卓・光瀬龍・福島正実らが小学生・中学生・高校生向けのジュブナイルの分野を推し進め、映画・テレビドラマ・漫画化される作品を生み出し学生向けSFの分野を確立した。 〈奇想天外〉(1974年創刊)、〈SFアドベンチャー〉(1979年創刊)、〈SF宝石〉(1979年創刊)、
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