鉄道事業の推進とは? わかりやすく解説

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鉄道事業の推進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:39 UTC 版)

井上勝」の記事における「鉄道事業の推進」の解説

大蔵省勤務してからは伊藤大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想発表するとはいえ当初鉄道技術日本にないためイギリスお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日岩倉具視澤宣嘉イギリス公使ハリー・パークス会見出席して岩倉らの通訳務めていたが、まだ鉄道に関する方針踏み込めなかった。続いてパークス紹介したホレーショ・ネルソン・レイ伊藤らとの交渉で、イギリス外債および技師建設材料提供して鉄道敷設進めることになった。しかしレイ日本国債ロンドン株式市場流して自分個人口座利ざやが入るようにした。政府レイとの交渉打ち切り外債とりつける新し交渉相手決めた1845年香港創立されオリエンタル・バンクである。 政府イギリス人技師エドモンド・モレル中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技習得しつつ路線を敷く実務携わり先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後の桜木町駅)間の鉄道着手合わせて明治3年1870年10月19日新設され工部省所属移し山尾同時に工部権大丞拝命。翌明治4年1871年7月23日には工部大丞昇進する鉱山鉱山頭と鉄道鉄道頭も兼任8月15日以降)、後に鉄道専任となるなど、鉄道事業との関わり本格化させていくことになる[要出典]。 鉄道頭では無かった頃の勝は、明治3年3月17日測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設直接関与はほとんどなかった代わりに鉄道建設反対する一般国民黒田清隆ほか政治家説得に当たり、海上線路を敷く築堤工事参加明治4年9月23日建設途中で死去したモレルの後を継いで工事継続努めるなど、間接的に工事推進全線明治5年1872年9月12日開通させ、日本の鉄道開業尽くした。また神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)を追って明治4年6月15日大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わると、お雇い外国人見積もった金額より安い経費算出して工部省工事変更願い出て許可を受ける。鉄道知識手腕外国人にも引けを取らないほどに習熟した[要出典]。 だが、工部少輔昇進した山尾上司格になるとたびたび対立し、勝は明治6年1873年7月22日官職辞任したおりから関東鉄道事業一段落しており、次の仕事大阪出張希望し現場指揮執りたいと申し入れた勝は、鉄道寮を大阪移転するようにも頼んだのに山尾どちらも却下した腹を立てた末に辞めたとも、山尾干渉に耐えられなかったともいわれる[要出典]。この問題岩倉使節団加わりヨーロッパ外遊していた伊藤宛てて自身手紙辞任知らせており、帰国した伊藤工部卿として配下山尾説得する。勝は明治7年1874年1月鉄道頭に復帰2月鉄道移転認められ事態解決、勝はしばらく関西方面鉄道敷設集中していくことになる。 明治7年5月11日お雇い外国人の手神戸 - 大阪間が、明治10年1877年2月5日には大阪 - 京都間も開通ひとまず関西方面開拓されたが、この間士族反乱が相次ぎ政府財政難治安悪化直面した。勝は事態打開のため明治9年1876年)に伊藤更なる鉄道網延長迫り京都から大津へ東の延伸計画決定されたものの、西南戦争勃発鉄道工事どころではなくなり、敷設明治10年中には行われなかった。代わりに日本人鉄道技術育成認められ明治10年1月鉄道寮が鉄道局改称し勝が鉄道局長に就任5月大阪駅構内に工技生養所を設立し飯田俊徳トーマス・シャービントン2人協力して技師養成長谷川謹介国沢能長らを輩出した。やがて工部省創設した工部大学校技術者養成し始めると、一方で養成所目標達成したとして明治15年1882年)に閉鎖し他方明治10年以降お雇い外国人順次解雇して養成所卒業生入れ替えていき、同胞力を合わせて鉄道工事傾注していく。 明治11年1878年4月政府国債発行資金調達当て出来る[要出典]と8月21日京都 - 大津駅間(浜大津駅改称、18.2km)の工事取り掛かり逢坂山トンネル着工作業全体4区振り分け飯田俊徳総監督長谷川国沢武者満歌千島九一・佐武正章三村周・南清ら#養成所第1回入学生を配置して実習兼ねた工事作業充てて、勝も自ら草鞋(ぞうり)・脚絆きゃはん)を履いて現場指揮すると、鶴嘴つるはし)を振るい開拓した外国人排除した作業逢坂山掘り進め区間難航明治12年1879年8月20日死者4人を出す落盤事故発生したものの、明治13年1880年7月15日完成日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる[要出典]。 更なる延伸検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まらず財政難状況で、琵琶湖南岸大津から直接東へ進出するには無理があるとして大津からの工事中断代案として京都 - 大津間途中馬場駅現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅到着琵琶湖鉄道連絡船太湖汽船)で渡し湖東長浜駅まで航行する手段採用される明治15年5月から藤田伝三郎企画で同汽船会社操業する。これに先立つ明治12年には琵琶湖から敦賀港接続する路線測量して明治13年4月着工連絡船就航挟んで長浜駅 - 金ヶ崎駅現在の敦賀港駅)間は着工から4年後の明治17年1884年4月16日開通した工事総監督京都 - 大津間の時と同じく飯田請け負い現場作業長谷川ら#養成所出身技師手掛けており、前出逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネル開削成功は、確実に日本人技師自立していることを示した

※この「鉄道事業の推進」の解説は、「井上勝」の解説の一部です。
「鉄道事業の推進」を含む「井上勝」の記事については、「井上勝」の概要を参照ください。

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