鉄道事業の推進
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大蔵省に勤務してからは伊藤や大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想を発表する。とはいえ、当初は鉄道技術が日本にないためイギリスのお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日に岩倉具視・澤宣嘉とイギリス公使ハリー・パークスの会見に出席して岩倉らの通訳を務めていたが、まだ鉄道に関する方針に踏み込めなかった。続いてパークスが紹介したホレーショ・ネルソン・レイと伊藤らとの交渉で、イギリスが外債および技師と建設材料を提供して鉄道敷設を進めることになった。しかしレイは日本国債をロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにした。政府はレイとの交渉を打ち切り、外債をとりつける新しい交渉相手を決めた。1845年に香港で創立されたオリエンタル・バンクである。 政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷く実務に携わり、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後の桜木町駅)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と同時に工部権大丞を拝命。翌明治4年(1871年)7月23日には工部大丞に昇進すると鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(8月15日以降)、後に鉄道頭専任となるなど、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる[要出典]。 鉄道頭では無かった頃の勝は、明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設に直接の関与はほとんどなかった代わりに、鉄道建設に反対する一般国民や黒田清隆ほか政治家の説得に当たり、海上に線路を敷く築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継いで工事継続に努めるなど、間接的に工事を推進、全線は明治5年(1872年)9月12日に開通させ、日本の鉄道開業に尽くした。また神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)を追って、明治4年6月15日の大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わると、お雇い外国人が見積もった金額より安い経費を算出して工部省に工事変更を願い出て許可を受ける。鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らないほどに習熟した[要出典]。 だが、工部少輔に昇進した山尾が上司格になるとたびたび対立し、勝は明治6年(1873年)7月22日に官職を辞任した。おりから関東の鉄道事業は一段落しており、次の仕事は大阪出張を希望し現場指揮を執りたいと申し入れた勝は、鉄道寮を大阪へ移転するようにも頼んだのに山尾がどちらも却下したと腹を立てた末に辞めたとも、山尾の干渉に耐えられなかったともいわれる[要出典]。この問題は岩倉使節団に加わりヨーロッパを外遊していた伊藤に宛てて勝自身が手紙で辞任を知らせており、帰国した伊藤は工部卿として配下の山尾を説得する。勝は明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められ事態は解決、勝はしばらく関西方面の鉄道敷設に集中していくことになる。 明治7年5月11日にお雇い外国人の手で神戸 - 大阪間が、明治10年(1877年)2月5日には大阪 - 京都間も開通。ひとまず関西方面も開拓されたが、この間に士族反乱が相次ぎ、政府は財政難と治安悪化に直面した。勝は事態打開のため明治9年(1876年)に伊藤に更なる鉄道網の延長を迫り、京都から大津へ東の延伸計画は決定されたものの、西南戦争勃発で鉄道工事どころではなくなり、敷設は明治10年中には行われなかった。代わりに日本人の鉄道技術者育成は認められ、明治10年1月に鉄道寮が鉄道局に改称し勝が鉄道局長に就任、5月に大阪駅構内に工技生養成所を設立し飯田俊徳とトーマス・シャービントンの2人と協力して技師を養成、長谷川謹介・国沢能長らを輩出した。やがて工部省が創設した工部大学校も技術者を養成し始めると、一方で養成所は目標を達成したとして明治15年(1882年)に閉鎖し、他方で明治10年以降、お雇い外国人を順次解雇して養成所卒業生と入れ替えていき、同胞と力を合わせて鉄道工事に傾注していく。 明治11年(1878年)4月に政府の国債発行で資金調達の当てが出来る[要出典]と8月21日に京都 - 大津駅間(浜大津駅に改称、18.2km)の工事に取り掛かり、逢坂山トンネルを着工。作業は全体を4区に振り分け、飯田俊徳を総監督に長谷川・国沢・武者満歌・千島九一・佐武正章・三村周・南清ら#養成所第1回入学生を配置して実習を兼ねた工事作業に充てて、勝も自ら草鞋(ぞうり)・脚絆(きゃはん)を履いて現場を指揮すると、鶴嘴(つるはし)を振るい開拓した。外国人を排除した作業は逢坂山を掘り進める区間が難航、明治12年(1879年)8月20日に死者4人を出す落盤事故が発生したものの、明治13年(1880年)7月15日に完成、日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる[要出典]。 更なる延伸も検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まらず財政難の状況で、琵琶湖南岸の大津から直接、東へ進出するには無理があるとして大津からの工事は中断、代案として京都 - 大津間は途中の馬場駅(現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅へ到着、琵琶湖は鉄道連絡船(太湖汽船)で渡し湖東の長浜駅まで航行する手段が採用される。明治15年5月から藤田伝三郎の企画で同汽船会社が操業する。これに先立つ明治12年には琵琶湖から敦賀港に接続する路線を測量して明治13年4月に着工、連絡船就航を挟んで長浜駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間は着工から4年後の明治17年(1884年)4月16日に開通した。工事総監督は京都 - 大津間の時と同じく飯田が請け負い、現場の作業は長谷川ら#養成所出身の技師が手掛けており、前出の逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネルの開削成功は、確実に日本人技師が自立していることを示した。
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