お雇い外国人とは? わかりやすく解説

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おやとい‐がいこくじん〔おやとひグワイコクジン〕【御雇外国人】

読み方:おやといがいこくじん

明治初期西洋技術・学芸を摂取するため、官公庁学校などで雇った外国人


お雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/30 18:38 UTC 版)

お雇い外国人(おやといがいこくじん、御雇外国人)は、幕末から明治 にかけて日本政府や各府県などによって雇用された外国人




「お雇い外国人」の続きの解説一覧

お雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:27 UTC 版)

バジル・ホール・チェンバレン」の記事における「お雇い外国人」の解説

1873年5月29日お雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた1882年には古事記完訳している(KO-JI-KI or "Records of Ancient Matters")。ついで1886年からは東京帝国大学外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、1888年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、1890年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、1899年初版1905年第二版)などの多く著作発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造著作BUSHIDO触れているが愛国主義教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソン共同旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(1891年)も執筆し、これは多くの版を重ねた1904年ごろから箱根藤屋富士屋)に逗留し近く文庫建てて研究続けていたが、眼病かかったため、1911年3月4日離日東京帝大名誉教師となった以降ジュネーヴ居住した箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道チェンバレン散歩道別称している。

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お雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 03:16 UTC 版)

クリストファー・カロザース」の記事における「お雇い外国人」の解説

その後広島英語学校の教師になり、大和田建樹教えたその後大阪英語学校教師になったが、1882年2月アメリカ帰国した1887年(明治20年)に再び日本戻り神奈川県尋常中等学校教師をする。1895年仙台市仙台第二高等学校の英語の教師になる。1896年(明治29年)2月11日紀元節不敬事件起こして排斥運動起こされ解雇されるその後アメリカ戻りワシントン州ポートスタンレー農場自宅過ごしたカロザース晩年ユニテリアン・ユニヴァーサリズム的に信仰傾倒した1921年(大正10年)にワシントン州サンフアン郡ロペス島の自宅没した

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お雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 01:25 UTC 版)

アレキサンダー・アラン・シャンド」の記事における「お雇い外国人」の解説

大蔵省1872年明治5年)に発布され国立銀行条例対応するため、国立銀行設立し銀行簿記仕組み統一する必要性迫られていた。そこで、同年7月欧米銀行実務精通したシャンドを紙幣寮附属書記官として登用した。翌1873年明治6年12月、シャンドが原著者となる『銀行簿記精法』が刊行された。同書はシャンドが英文著したものを大蔵省内で翻訳したもので、日本ではじめての日本語による複式簿記の書とされている。同書執筆中、シャンドは創立間もない第一国立銀行招かれ銀行簿記会計技術伝達した同行総監立場にあった渋沢栄一もシャンドから銀行実務教え受けた同年8月、シャンドの長男避暑地箱根急逝したことでシャンド自身体調崩し同年10月一時帰国する。翌年10月再来日し、紙幣寮外国書記官顧問長として復職した1874年明治7年11月小野組経営破綻した影響第一国立銀行経営危機瀕したことを受け、大蔵省国立銀行会計監査実施決めた。翌1875年明治8年)、シャンドは第一国立銀行検査派遣され日本ではじめての銀行検査実施した渋沢栄一はのちにシャンドによる検査を「今考へて見ると私は大変利益があつたと思ふ、成程あゝ云ふ覚悟なければ銀行者はいけない」と述懐し検査による利益があったとしている。 1877年明治10年2月にシャンドは大蔵省退職し帰国した同年1月紙幣寮改革による解職、または西南戦争における経費節約による解雇との記述見られる

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お雇い外国人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 05:48 UTC 版)

アレクサンダー・フォン・シーボルト」の記事における「お雇い外国人」の解説

1870年明治3年8月英国公使館辞職文明開化最中新政府雇用され上野景範秘書に任ぜられロンドン派遣された。同時に英国留学していた日本人監督保護担当したその後フランクフルト出張して紙幣印刷交渉を行う。さらに、ウィーン万国博覧会参加交渉行った1872年11月日本戻ったが、1873年明治6年2月、駐オーストリア・イタリア弁理公使佐野常民への随行命じられ、再び渡欧した1874年明治7年)末に日本に戻る。 1875年明治8年5月には大蔵省専属翻訳官となる。1877年明治10年)、母の死去に伴い6か月帰国するその間ロシア財政報告行い1878年パリ万国博覧会委員任命された。同年11月二等書記官としてベルリン赴任1881年明治14年10月日本戻り井上馨秘書として条約改正の任にあたった。このときの条約改正成功せず1882年明治15年ベルリン戻り1884年明治17年)にはローマ移り1885年明治18年)に日本戻った1892年明治25年)からロンドンにおいて駐英公使青木周蔵条約改正交渉手伝い1894年明治27年)に日英通商航海条約調印成功したその後日本政府対す影響力低下していったが、1910年明治43年8月政府勤務40年記念祝典開催され勲二等瑞宝章贈られドイツからもプロイセン第二宝冠章贈られた。 ドイツにおいては玉井喜作発行していた月刊誌東亜(Ost-Asien)』によく投稿しており、後にこれらをまとめ『シーボルト最後の日旅行』として出版された。 1911年1月ジェノヴァ近郊ペリにて死去した

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