お雇い外国人
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お雇い外国人(おやといがいこくじん、御雇外国人)は、幕末から明治 にかけて日本政府や各府県などによって雇用された外国人。
- 1 お雇い外国人とは
- 2 お雇い外国人の概要
お雇い外国人
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「バジル・ホール・チェンバレン」の記事における「お雇い外国人」の解説
1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(KO-JI-KI or "Records of Ancient Matters")。ついで1886年からは東京帝国大学の外国人教師となった。ここで彼は"A Handbook of Colloquial Japanese"(『口語日本語ハンドブック』、1888年)、"Things Japanese"(『日本事物誌』、1890年初版)、"A Practical Introduction to the Study of Japanese Writing"(『文字のしるべ』、1899年初版、1905年第二版)などの多くの著作を発表した。"Things Japanese"の中で新渡戸稲造の著作BUSHIDOに触れているが愛国主義的教授(nationalistic professor)と批判的である。さらに彼はW.B.メーソンと共同で旅行ガイドブックの『マレー』の日本案内版である"A Handbook for Travellers in Japan"(1891年)も執筆し、これは多くの版を重ねた。1904年ごろから箱根の藤屋(富士屋)に逗留し近くに文庫を建てて研究を続けていたが、眼病にかかったため、1911年3月4日離日、東京帝大名誉教師となった。以降はジュネーヴに居住した。箱根宮ノ下では、堂ヶ島渓谷遊歩道をチェンバレンの散歩道と別称している。
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お雇い外国人
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「クリストファー・カロザース」の記事における「お雇い外国人」の解説
その後、広島英語学校の教師になり、大和田建樹を教えた。その後、大阪英語学校の教師になったが、1882年2月にアメリカに帰国した。 1887年(明治20年)に再び日本に戻り神奈川県尋常中等学校で教師をする。1895年仙台市の仙台第二高等学校の英語の教師になる。1896年(明治29年)2月11日紀元節に不敬事件を起こして排斥運動を起こされ解雇される。その後、アメリカに戻りワシントン州ポートスタンレーの農場の自宅で過ごした。 カロザースは晩年にユニテリアン・ユニヴァーサリズム的に信仰に傾倒した。1921年(大正10年)にワシントン州サンフアン郡ロペス島の自宅で没した。
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お雇い外国人
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「アレキサンダー・アラン・シャンド」の記事における「お雇い外国人」の解説
大蔵省は1872年(明治5年)に発布された国立銀行条例に対応するため、国立銀行を設立し銀行簿記の仕組みを統一する必要性に迫られていた。そこで、同年7月に欧米の銀行実務に精通したシャンドを紙幣寮附属書記官として登用した。翌1873年(明治6年)12月、シャンドが原著者となる『銀行簿記精法』が刊行された。同書はシャンドが英文で著したものを大蔵省内で翻訳したもので、日本ではじめての日本語による複式簿記の書とされている。同書の執筆中、シャンドは創立間もない第一国立銀行に招かれ、銀行簿記や会計の技術を伝達した。同行の総監の立場にあった渋沢栄一もシャンドから銀行実務の教えを受けた。 同年8月、シャンドの長男が避暑地の箱根で急逝したことでシャンド自身も体調を崩し、同年10月に一時帰国する。翌年10月に再来日し、紙幣寮外国書記官兼顧問長として復職した。 1874年(明治7年)11月に小野組が経営破綻した影響で第一国立銀行が経営危機に瀕したことを受け、大蔵省は国立銀行の会計監査の実施を決めた。翌1875年(明治8年)、シャンドは第一国立銀行の検査に派遣され、日本ではじめての銀行検査を実施した。渋沢栄一はのちにシャンドによる検査を「今考へて見ると私は大変利益があつたと思ふ、成程あゝ云ふ覚悟でなければ銀行者はいけない」と述懐し、検査による利益があったとしている。 1877年(明治10年)2月にシャンドは大蔵省を退職し帰国した。同年1月の紙幣寮改革による解職、または西南戦争における経費節約による解雇との記述も見られる。
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お雇い外国人
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「アレクサンダー・フォン・シーボルト」の記事における「お雇い外国人」の解説
1870年(明治3年)8月に英国公使館を辞職、文明開化の最中の新政府に雇用され、上野景範の秘書に任ぜられロンドンに派遣された。同時に英国に留学していた日本人の監督保護を担当した。その後フランクフルトに出張して、紙幣印刷の交渉を行う。さらに、ウィーン万国博覧会の参加交渉を行った。1872年11月に日本に戻ったが、1873年(明治6年)2月、駐オーストリア・イタリア弁理公使佐野常民への随行が命じられ、再び渡欧した。1874年(明治7年)末に日本に戻る。 1875年(明治8年)5月には大蔵省専属の翻訳官となる。1877年(明治10年)、母の死去に伴い6か月間帰国する。その間にロシアの財政報告を行い、1878年パリ万国博覧会の委員に任命された。同年11月、二等書記官としてベルリン赴任。1881年(明治14年)10月に日本に戻り、井上馨の秘書として条約改正の任にあたった。このときの条約改正は成功せず、1882年(明治15年)ベルリンに戻り、1884年(明治17年)にはローマに移り、1885年(明治18年)に日本に戻った。1892年(明治25年)からロンドンにおいて駐英公使青木周蔵の条約改正交渉を手伝い、1894年(明治27年)に日英通商航海条約の調印に成功した。 その後、日本政府に対する影響力は低下していったが、1910年(明治43年)8月、政府勤務40年の記念祝典が開催され、勲二等瑞宝章が贈られ、ドイツからもプロイセン第二等宝冠章を贈られた。 ドイツにおいては、玉井喜作が発行していた月刊誌『東亜(Ost-Asien)』によく投稿しており、後にこれらをまとめ『シーボルト最後の日本旅行』として出版された。 1911年1月、ジェノヴァ近郊のペリにて死去した。
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