避暑地としてとは? わかりやすく解説

避暑地として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:37 UTC 版)

高山外国人避暑地」の記事における「避暑地として」の解説

1888年明治21年)、仙台の(旧制第二高等学校英語教師として勤めていた米国聖公会宣教医のF.W.ハーレルが、ハンティングのために現七ヶ浜町域を訪れ高山病気夫人療養地として見出した。翌1889年明治22年)、仙台神学校デヴィッド・ボウマン・シュネーダーやハーレルらが、日本人友人名義をもって花渕浜高山地区別荘用地として10年契約借り受けた仙台在住アメリカ人宣教師により7棟の別荘がここに建てられ高山の避暑地としての歴史が始まる。 1888年は、高山隣接する菖蒲田海水浴場地図)が日本3番目の海水浴場として開場した年であり、1889年町村制の施行七ヶ浜村人口4,157人)が誕生した年でもある。1890年明治23年)には、アメリカ合衆国バービー商会から購入され西洋野菜種子で、ズッキーニビーツルバーブセロリパセリラズベリーなどが栽培された。これは東北地方最初西洋野菜栽培例と考えられている。1899年明治32年)になると日英通商航海条約発効し、これにより内地雑居始まった1907年明治40年)、日露戦争機に外国人から毎年賃貸契約更新に不安の声が上がったため、4人の外国人一括して高山地区地上権を満999年間に渡って与え約束交わされた。これは計算上2906年までの契約で、地上権料は1,154円である。別荘地全体管理運営のため高山ビーチカンパニー(高山開墾合資会社 Takayama Reclamation Joint Stock Company)が設立され年次総会選出される8人の委員による合議制運営されるようになったこの後避暑客住民増えるにつれ、土地追加されていった1917年大正6年)には、乳牛飼育のためにシュネーダーは花渕浜金色牛舎建てた。また1934年昭和9年)より8月中旬宮城県主催する国際親善夕べ」が開催された。 この頃高山滞在した著名人として、関西学院4代院長コーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツがいる。ベーツは一家毎夏ここを訪れていた。ベーツは1902年明治35年)に来日し1910年明治43年)に関西学院赴任1920年大正9年)に関西学院4代院長就任し1940年昭和15年)に辞任して帰国したまた、1935年昭和10年)、東京帝国大学留学中ヒュー・ボートン家族と共に高山一夏過ごした1936年昭和11年)から5年間、東北帝国大学教鞭を執った哲学史家のカール・レーヴィット高山逗留した外交官糠沢和夫の父である糠沢仙吉学生時代休みの日に現在の福島県本宮市から高山外国人に英語を習い来ていた。 1941年昭和16年)、日本とアメリカの関係悪化して開戦必至状況になると、高山外国人達が土地権利動産不動産売却七ヶ浜村申し出た七ヶ浜村高山ビーチカンパニーの管理地を買収する仮契約11月結ばれ太平洋戦争開戦後1942年昭和17年3月に本契約が行われた。買収金額は6万円であり、これは当時七ヶ浜村年間経常費5万円の1.2倍に相当したこの前月の2月には、日本軍シンガポール占領際し七ヶ浜村長を先頭村民大挙として高山押し寄せ3本松の木各々等身大アメリカ合衆国大統領ローズベルトイギリスの首相チャーチル中華民国総統蔣介石の絵を巻き付け銃剣突いて歳を叫ぶという事件が発生した1945年昭和20年第二次世界大戦終結すると、日本各地連合国軍進駐始めた宮城県においては9月11日最初進駐軍となるアメリカ軍の第11空挺師団先遣隊106人がジープ分乗し横浜から陸路松島パークホテル到着してこれを接収した。これによって宮城県における連合国軍占領期始まった9月15日にはアメリカ軍第8軍指揮下の第14軍団司令官塩釜港上陸し9月16日進駐軍鉄道トラック仙台入り開始した9月26日になると、宮城県進駐したアメリカ軍は約1万人まで増加した仙台進駐した連合国軍1948年昭和23年)に高山地区周辺浜辺などを接収し、ここに海水浴のための脱衣所シャワー室休憩室など数棟を建てた。 この戦後連合国軍統治においては戦前戦中における連合国関連外国人権益処理が行われ、この中で太平洋戦争開戦前後に七ヶ浜村外国人の間で行なわれ高山土地売買問題とされた。1951年昭和26年)、連合国軍最高司令官総司令部民間財産管理局 (CPC) はこの取引不当な譲渡見なし七ヶ浜村土地の返還要求した。これに対して七ヶ浜村は、戦前アメリカで弁護士を開業当時代議士となっていた安部俊吾民間財産管理局との折衝依頼し七ヶ浜村長や村議会議長民間財産管理局に出頭して弁明努めた。この時、契約当時当事者である七ヶ浜村長の鎌田外国人側の代表者アンケニーはすでに死去している状況だった。高山家屋所有していたアメリカ人滞在者の一人はアンケニーに土地売却依頼した覚えはないと主張し七ヶ浜村はこれを覆す有力な資料提示することができなかった。日本アメリカの間で講和条約締結される事が確実になるとこの問題速やかに処理されることになり、最終的に七ヶ浜村民間財産管理局の要求受け入れた七ヶ浜村には買収費用戻されることになったが、インフレーション鑑みて時価での返却大蔵省陳情したものの黙殺され、支払われ金額当時契約金額6万円だった。1952年昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約発効し高山ビーチカンパニーに不動産等の権利返却された。 1989年平成元年10月七ヶ浜町開村100周年、および高山避暑地開設100周年記念して七ヶ浜町アメリカ合衆国マサチューセッツ州プリマスとの姉妹都市締結交渉開始され1990年平成2年10月3日両町姉妹都市締結が行われた。また1993年平成5年)、高山外国人避暑地隣接する高台七ヶ浜国際村地図)がオープンした。この施設敷地内には、高山外国人避暑地歴史資料展示する「プリマスハウス」も設置された。 2011年平成23年2月避暑地外国人と、七ヶ浜町ボランティアセンター避暑地サポーターボランティア」との間で、地震および津波発生時避難行動について話し合い持たれた。これから間もない3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生し、これに伴う津波コテージ群の一部浸水した発災時に避暑地居住滞在していた外国人は6箇国8名だった。後に避暑地は、外国人ボランティア滞在地1つとなった3月22日には、プリマステレビ局募金呼びかける長時間テレビ番組実施し最終的に1000万円を超える募金集めた6月7日には、避暑地長年居住するアメリカ人女性スコットランド人女性により、被災者生き甲斐づくりを目的とした編み物クラブYARN ALIVE」(ヤーン・アライブ:毛糸いきいき)が立ち上げられた。完成した編み物当初、同じ県内気仙沼市女川町被災者届けられたが、後に広がって被災地福祉施設さらには世界災害被災者や、フィリピンネパールヨルダンモザンビーク等の難民にも届けられるようになった。この活動マスメディアでも取り上げられ世界中個人毛糸会社から毛糸棒針届けられた。7月30日七ヶ浜国際交流協会避暑地住民により「表浜クリーン作戦」が実施された。 2015年平成27年8月台湾日本国内などからの寄付により「ヤーン・アライブ・ハウス」(正式名称:旧花渕浜集会所)が花渕浜完成した

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