避暑地として
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1888年(明治21年)、仙台の(旧制)第二高等学校に英語教師として勤めていた米国聖公会の宣教医のF.W.ハーレルが、ハンティングのために現七ヶ浜町域を訪れ、高山を病気の夫人の療養地として見出した。翌1889年(明治22年)、仙台神学校のデヴィッド・ボウマン・シュネーダーやハーレルらが、日本人の友人の名義をもって、花渕浜の高山地区を別荘用地として10年契約で借り受けた。仙台在住のアメリカ人宣教師により7棟の別荘がここに建てられ、高山の避暑地としての歴史が始まる。 1888年は、高山に隣接する菖蒲田海水浴場(地図)が日本で3番目の海水浴場として開場した年であり、1889年は町村制の施行で七ヶ浜村(人口4,157人)が誕生した年でもある。1890年(明治23年)には、アメリカ合衆国のバービー商会から購入された西洋野菜の種子で、ズッキーニ、ビーツ、ルバーブ、セロリ、パセリ、ラズベリーなどが栽培された。これは東北地方で最初の西洋野菜栽培例と考えられている。1899年(明治32年)になると日英通商航海条約が発効し、これにより内地雑居が始まった。 1907年(明治40年)、日露戦争を機に外国人から毎年の賃貸契約更新に不安の声が上がったため、4人の外国人に一括して高山地区の地上権を満999年間に渡って与える約束が交わされた。これは計算上2906年までの契約で、地上権料は1,154円である。別荘地全体の管理運営のため高山ビーチカンパニー(高山開墾合資会社 Takayama Reclamation Joint Stock Company)が設立され、年次総会で選出される8人の委員による合議制で運営されるようになった。この後、避暑客や住民が増えるにつれ、土地が追加されていった。1917年(大正6年)には、乳牛飼育のためにシュネーダーは花渕浜金色に牛舎を建てた。また1934年(昭和9年)より8月中旬に宮城県が主催する「国際親善の夕べ」が開催された。 この頃、高山に滞在した著名人として、関西学院第4代院長のコーネリアス・ジョン・ライトホール・ベーツがいる。ベーツは一家で毎夏ここを訪れていた。ベーツは1902年(明治35年)に来日し、1910年(明治43年)に関西学院に赴任、1920年(大正9年)に関西学院第4代院長に就任し、1940年(昭和15年)に辞任して帰国した。また、1935年(昭和10年)、東京帝国大学に留学中のヒュー・ボートンも家族と共に高山で一夏を過ごした。1936年(昭和11年)から5年間、東北帝国大学で教鞭を執った哲学史家のカール・レーヴィットも高山に逗留した。外交官の糠沢和夫の父である糠沢仙吉は学生時代、休みの日に現在の福島県本宮市から高山の外国人に英語を習いに来ていた。 1941年(昭和16年)、日本とアメリカの関係が悪化して開戦必至の状況になると、高山の外国人達が土地の権利と動産、不動産の売却を七ヶ浜村に申し出た。七ヶ浜村が高山ビーチカンパニーの管理地を買収する仮契約が11月に結ばれ、太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)3月に本契約が行われた。買収金額は6万円であり、これは当時の七ヶ浜村の年間経常費5万円の1.2倍に相当した。この前月の2月には、日本軍のシンガポール占領に際し、七ヶ浜村長を先頭に村民が大挙として高山に押し寄せ、3本の松の木に各々等身大のアメリカ合衆国大統領ローズベルト、イギリスの首相チャーチル、中華民国総統蔣介石の絵を巻き付け、銃剣で突いては万歳を叫ぶという事件が発生した。 1945年(昭和20年)第二次世界大戦が終結すると、日本各地に連合国軍が進駐を始めた。宮城県においては9月11日に最初の進駐軍となるアメリカ軍の第11空挺師団の先遣隊106人がジープに分乗し、横浜から陸路で松島パークホテルに到着してこれを接収した。これによって宮城県における連合国軍占領期が始まった。9月15日にはアメリカ軍の第8軍指揮下の第14軍団の司令官が塩釜港に上陸し、9月16日に進駐軍が鉄道とトラックで仙台入り開始した。9月26日になると、宮城県に進駐したアメリカ軍は約1万人まで増加した。仙台に進駐した連合国軍は1948年(昭和23年)に高山地区や周辺の浜辺などを接収し、ここに海水浴のための脱衣所やシャワー室、休憩室など数棟を建てた。 この戦後の連合国軍の統治においては、戦前や戦中における連合国関連外国人の権益処理が行われ、この中で太平洋戦争開戦前後に七ヶ浜村と外国人の間で行なわれた高山の土地の売買が問題とされた。1951年(昭和26年)、連合国軍最高司令官総司令部の民間財産管理局 (CPC) はこの取引を不当な譲渡と見なし、七ヶ浜村に土地の返還を要求した。これに対して七ヶ浜村は、戦前にアメリカで弁護士を開業し当時代議士となっていた安部俊吾に民間財産管理局との折衝を依頼し、七ヶ浜村長や村議会議長も民間財産管理局に出頭して弁明に努めた。この時、契約当時の当事者である七ヶ浜村長の鎌田と外国人側の代表者アンケニーはすでに死去している状況だった。高山に家屋を所有していたアメリカ人滞在者の一人はアンケニーに土地の売却を依頼した覚えはないと主張し、七ヶ浜村はこれを覆す有力な資料を提示することができなかった。日本とアメリカの間で講和条約が締結される事が確実になるとこの問題は速やかに処理されることになり、最終的には七ヶ浜村は民間財産管理局の要求を受け入れた。七ヶ浜村には買収費用が戻されることになったが、村はインフレーションを鑑みて時価での返却を大蔵省に陳情したものの黙殺され、支払われた金額は当時の契約金額6万円だった。1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、高山ビーチカンパニーに不動産等の権利が返却された。 1989年(平成元年)10月、七ヶ浜町の開村100周年、および高山避暑地開設100周年を記念して、七ヶ浜町とアメリカ合衆国マサチューセッツ州のプリマスとの姉妹都市締結の交渉が開始され、1990年(平成2年)10月3日に両町の姉妹都市締結が行われた。また1993年(平成5年)、高山外国人避暑地に隣接する高台に七ヶ浜国際村(地図)がオープンした。この施設の敷地内には、高山外国人避暑地の歴史資料を展示する「プリマスハウス」も設置された。 2011年(平成23年)2月、避暑地の外国人と、七ヶ浜町ボランティアセンター「避暑地サポーターボランティア」との間で、地震および津波発生時の避難行動について話し合いが持たれた。これから間もない3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、これに伴う津波でコテージ群の一部が浸水した。発災時に避暑地に居住、滞在していた外国人は6箇国8名だった。後に避暑地は、外国人ボランティアの滞在地の1つとなった。3月22日には、プリマスのテレビ局が募金を呼びかける長時間のテレビ番組を実施し、最終的に1000万円を超える募金を集めた。6月7日には、避暑地に長年居住するアメリカ人女性とスコットランド人女性により、被災者の生き甲斐づくりを目的とした編み物クラブ「YARN ALIVE」(ヤーン・アライブ:毛糸いきいき)が立ち上げられた。完成した編み物は当初、同じ県内の気仙沼市や女川町の被災者に届けられたが、後に広がって各被災地や福祉施設、さらには世界の災害被災者や、フィリピン、ネパール、ヨルダン、モザンビーク等の難民にも届けられるようになった。この活動がマスメディアでも取り上げられ、世界中の個人や毛糸会社から毛糸や棒針が届けられた。7月30日、七ヶ浜国際交流協会と避暑地の住民により「表浜クリーン作戦」が実施された。 2015年(平成27年)8月、台湾や日本国内などからの寄付により「ヤーン・アライブ・ハウス」(正式名称:旧花渕浜集会所)が花渕浜に完成した。
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