衰退から最期へとは? わかりやすく解説

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衰退から最期へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)

大友義鎮」の記事における「衰退から最期へ」の解説

耳川の戦い後、大友領内各地国人反乱が相次ぎ、さらに島津義久龍造寺隆信秋月種実らの勢力拡大もあり、大友氏領土侵食されていった。宗麟は本州大勢となっていた織田信長依頼し島津氏との和睦斡旋しもらった大友氏信長中国地方侵攻すなわち毛利氏との戦い協力することなどを約束していたが、天正10年1582年)の本能寺の変により信長死んだことにより、これらは立ち消えとなった天正12年1584年)の沖田畷の戦いにて、龍造寺隆信島津義久の弟の島津家久敗北喫し戦死すると、大友氏立花道雪命じて筑後国侵攻行い筑後国大半奪回した。しかし翌天正13年1585年)に道病死し同地での求心力失った。これを好機見た島津義久北上始めた家臣高橋紹運立花宗茂(道養子父子奮戦島津軍侵攻鈍らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独では島津氏勢いには対抗出来なくなっていた。 このため天正14年1586年)、宗麟は上方向かい中央統一政策進め豊臣秀吉大坂城謁見することに成功した。宗麟は大友氏豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援懇願した島津義久その後大友領へ侵攻した豊薩合戦)。大友氏救援赴いた仙石秀久十河存保長宗我部元親らの四国勢中心とした豊臣軍先発隊が豊後到着したが、この先発隊と大友氏は「豊後国にて防備固めよ」という秀吉命令順守せず、攻められていた大友氏鶴ヶ城救援に赴き、同年12月12日独断会戦戸次川の戦い)したが、島津家久軍により大友氏軍と豊臣軍先発隊は壊滅敗走させられた。島津軍はさらに大友氏本拠地である豊後府内攻略した。この時、丹生島城(のちの臼杵城)に籠城していた宗麟は大砲国崩しフランキ砲)を使って丹生島城守った豊後国内で栂牟礼城佐伯惟定岡城志賀親次鶴崎城妙林尼筑前国立花山城立花宗茂立花山城の戦い)など各臣は自らの居城奮闘した。しかし個々拠点かろうじて防衛しているだけであり、豊後島津氏蹂躙され大友家滅亡寸前にまで追い詰められていた。 天正15年1587年)、豊前国小倉先着していた毛利輝元宇喜多秀家宮部継潤らの軍勢豊臣秀長軍勢合流し、さらに豊臣秀吉軍の本隊九州入り総勢10万軍勢九州上陸した九州平定)。同年4月17日日向国根白坂で行なわれ豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦根白坂の戦いにおいては、砦の守将の宮部継潤らを中心にした1万軍勢空堀板塀などを用いて砦を堅守し、これを島津軍突破できずに戦線膠着状態に陥っていたが、豊臣秀長麾下藤堂高虎500名と宇喜多秀家麾下戸川達安の手勢らが宮部救援向かい島津軍衝突し島津軍島津忠隣猿渡信光戦死するなど甚大な損害出して敗走した。この戦果は、戸次川の戦い敗北により失った豊臣氏権威回復し秀吉による九州平定盤石なものにした上で窮地に陥っている大友氏救った戦いとなった大友氏領内島津軍撤退した5月13日秀吉は秀長へ全11ヶ条の条々下した。(『大友家文書録』) 大隅日向両国人質解放命令 戸次川の戦いでの長宗我部信親戦死悼み大隅国長宗我部元親下す 島津義久降伏様子 毛利輝元小早川隆景吉川元長薩摩国に移陣させる 志賀親次忠節報い大友宗麟判断日向国内に城を与え大友義統談議豊後国内の不要な城の破却命令 日向国における大友宗麟知行取分は宗麟の覚悟次第とする 宇喜多秀家宮部継潤蜂須賀家政尾藤知宣黒田孝高日向国大隅国豊後国の城普請および城割り 豊前国不要な城の破却豊後豊前国間に一城構築すべきこと 越権行為成敗すること などの内容であるが、これにより、この時点では豊後日向二国が義統と宗麟にそれぞれ与えられ豊臣氏支配体制の内ではあるが、両国大友氏采配の下となる様子窺える。 宗麟は戦局一気逆転していく中で病気倒れ島津義久降伏直前豊後国津久見病死した。58歳。死因チフスが有力とされている。 九州平定後、秀吉命令で義統には豊後一国安堵された。秀吉は宗麟に日向国与えようとしていたが、統治意欲失っていた宗麟はこれを辞退したもしくは直前死去した、とされている。 墓所大分県津久見市内と、京都市北区龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。津久見市上宮本町の響流山長泉寺位牌がある。肖像画瑞峯院所蔵されている。宗麟の死の直後キリスト教式葬儀が行われ、墓は自邸設けられたが、後に義統が府内大知寺で改め仏式の葬儀行い墓地仏式のものに改められた。その後、義統が所領没収されるなどして大友氏衰退したこともあり、宗麟の墓所荒廃していたが、寛政年間1789 - 1801年)に宗麟の家臣末裔である臼杵城豊が自費改葬した。津久見市内の現在の墓所昭和52年1977年)に当時大分市長・上田保によって、新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである

※この「衰退から最期へ」の解説は、「大友義鎮」の解説の一部です。
「衰退から最期へ」を含む「大友義鎮」の記事については、「大友義鎮」の概要を参照ください。

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