犯罪と捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 19:31 UTC 版)
「パークマン=ウェブスター殺人事件」の記事における「犯罪と捜査」の解説
1842年にウェブスターはパークマンから400ドルを初めて借りた。1847年に、ウェブスターは借金をほとんど返済せぬまま、未払い残高とそれ以上の貸付金としてパークマンに2432ドルの手形をあたえた。これは、鉱石のコレクションをふくむ、ウェブスターの個人財産の抵当によって保証された。ウェブスターの金銭問題は解決せず、1848年にはロバート・G・ショー(Robert G. Shaw)から1200ドルを借り、すでにパークマンの貸付金の抵当になっていた鉱物を、抵当として彼にゆずった。これに激怒したパークマンはウェブスターを捜した[要出典]。 感謝祭の1週間前にあたる1849年11月22日(木曜日)、パークマンは、ウェブスターをさがしにケンブリッジに行った際、ハーヴァードの出納責任者ミスタ・ペッティー(Mr. Pettee)に、ウェブスターの借金を返すために、ウェブスターの講義の切符の売り上げから金を彼に与えるようにたのんだ。 11月23日(金曜日)、パークマンはいつものように借金を回収していた。同日ウェブスターはパークマン宅を訪れ、その日の午後1時30分にメディカル・カレッジで会わないかと提案した。午後1時45分にパークマンが黒っぽいフロック・コート、黒っぽいズボン、紫の本しゅすのヴェスト、そしてシルクハットという服装で、ノース・グローヴ・ストリート(North Grove Street)のカレッジの中に入ったのを最後に、消息を絶った。その日の午後おそくに、リトルフィールドはウェブスターの部屋が中から錠をかけられていることに気づき、水が流れている音が聞こえた。ウェブスターは午後6時までに帰宅し、何食わぬ顔で友人らの家でのパーティーに出席した。 11月24日(土曜日)、心配したパークマンの家族が警察に相談した。同日、リトルフィールドは、ウェブスターが包み(bundle)を1つ持っている様子を見かけ、ウェブスターから火をおこすように命じられた。 11月25日(日曜日)、ウェブスターはハーヴァード・メディカル・カレッジの外に姿を現わし、パークマンの甥ジェームス・ヘンリー・ブレーク(James Henry Blake)と警察官トレンホーム(Trenholm)に会った。彼らは彼に、パークマンを見たかどうか訊ねた。その日の午後、彼はまた、パークマンの兄弟フランシス・パークマン師(the Reverend Francis Parkman)を訪問し、フランシスと彼の家族に、自分は分割払いの借金を返すために483ドル64セントを入手したのちにパークマンと会い、借金を片付けるために都市の事務員(city clerk)に支払いを記録させることを約束してくれた、と話した。ウェブスターはそれから、捜索について訊ねることなく立ち去った。 11月26日(月曜日)に、パークマンの家族は3000ドルの懸賞金を出し、2万8000枚のチラシを配布した。すこしのちに、彼の身体にたいして1000ドルの懸賞金を出した。 11月27日(火曜日)、ウェブスターは晩にカレッジで働いた。都市は、120の定期刊行物によってあおられた推測で騒然としていた。最初はアイルランド系移民が疑われた。その一方で、パークマンはただボストンを立ち去っただけだと考える者や、彼はいつも持ち合わせているかねのために打ちのめされていたと考える者もいた。ボストンから郵送された署名のない複数の手紙が、さまざまな憶測を呼んだ。都市の執行官(city marshal)フランシス・タキー(Francis Tukey)は、チャールズ川とボストン湾を捜索し、近隣諸都市に捜査官を派遣した。捜索隊が結成され、昼も夜もずっと出かけた。警察は、パークマンの、賃貸されているのと空いているのと両方の、複数の建物を、さらに彼が所有していない放棄された建物をさえ、捜索した。官吏ディラストゥス・クラップ(Derastus Clapp)と、タキーのあらたに結成したプロの警官隊からのその他の警察官は、彼の複数の部屋を最初に捜索した。彼らは、いったんもどって、毎回、複数の研究室と複数の解剖室に特別に重点を置いたが、パークマンがそこに居たことをしめすものはなにも見つからなかった。 リトルフィールドとパークマンの失踪をむすびつける者もいたため、リトルフィールドは不安になり、ウェブスターの行動が奇妙であったので、彼は疑り深くなった。謀殺事件の数日後、リトルフィールドはウェブスターに会い、ウェブスターから前の週にカレッジでパークマンを見たかどうか訪ねられた。リトルフィールドが、自分は金曜日、1時30分ころに彼を見たと言うと、ウェブスターは、杖で彼を殴打して地面に倒したし、それから、もし1時30分以降、彼に会ったならば、その建物内のどこかでパークマンに会ったかどうか、あるいはパークマンがウェブスター自身の講義室に居たどうか、訊ねた。リトルフィールドがこれらの問いに否とこたえた。ウェブスターは借金を完済したことの話をくりかえして、歩み去ったが、カレッジでいっしょにすごした年月の間に話したよりも多くリトルフィールドに話していた[要出典]。リトルフィールドは、謀殺事件の4日前にウェブスターが彼に解剖室について多くの質問をしたことをおぼえていて、カレッジの捜索ののち、ウェブスターは感謝祭の晩餐のシチメンチョウでリトルフィールドをおどろかせた - 彼がかつて彼にした最初の贈り物であった[要出典]。 11月28日(水曜日)に、ウェブスターは、早い時間にカレッジに居た。リトルフィールドは、扉の下から彼を見守ると、彼の両ひざまでが見えた。ウェブスターは、炉と燃料クローゼットとのあいだを8往復した。その日の晩、炉があまりにはげしく燃えており、リトルフィールドが反対側の壁に触れると熱かった。ウェブスターはすべての扉にはかんぬきをかけて部屋を去ったため、リトルフィールドは窓から部屋のなかにはいった。リトルフィールドは、最近いっぱいにしたはずの複数の焚き付けの樽がほとんどからになっていることに気づき、そして奇妙な複数の場所に(in odd places)酸のような味のする複数の濡れた箇所があった。 感謝祭である11月29日(木曜日)にリトルフィールドは、手おの(hatchet)、ドリル、バール、モルタル用のたがねを借り、そして妻を見張りに立てて、ウェブスターの研究室の便所のしたの壁をたがねで彫りはじめた。彼は、トンネルをとおりぬけ、触れると熱かった壁のある解剖室のなかにはいり、便所が、警察が捜索しなかった穴のなかにそそぐ箇所を切りつけはじめた。彼は、1時間あまりで2層のれんがを貫通し、それからダンス・パーティーへでかけるために作業を中断した。 11月30日(金曜日)に、リトルフィールドはたがね作業を再開し、しばらく作業して、なんとか壁にあなを1つあけ、その点で彼は、ランタンがなかでは点(とも)りつづけさせないくらい強いすきま風を感じた。彼は、そこを策を弄して切り抜け、いやな臭いを無視したり眼を暗闇になれさせたりしながら、まわりを見回した。とうとう、なにか尋常ではないものが見えた。彼は、信じられないというように眼をほそめ、さらにするどく見やると、泥の山のうえに人間の骨盤の形をみつけた。また切断された太もも1つと脚の下半分1つも見えた。 掘削穴から出たリトルフィールドは、別の教授ジェーコブ・ビゲロー(Jacob Bigelow)宅まで走り、知らせを受けたビゲローは執行官タキーを見つけた。タキーが到着するときまでには、うわさがひろがっていたし、一団の男がそれらの骨の身元にかんする公式の報告を待っていた。タキーはまず、リトルフィールドに解剖室を調べさせ、なにも失われていないことをたしかめるために標本の一覧表を作らせた。それから数人の男がトンネルのなかにはいり、解剖室のほうへ移動した。彼らは、腕のいちばん長い男であれば、便所のなかにはいり、残存物をそとへ手渡しするだろうと結論を下した。彼は、骨盤、右太もも、左脚の下半分を手渡しで外に出し、これらは板の上に置かれ、検視官ジャベツ・プラット(Jabez Pratt)の到着を待った。 こののち、執行官タキーは、ウェブスターをケンブリッジの自宅から連れ出すために警察官クラップとほか2人の刑事を急派した。さいしょは、彼に逮捕されているとはと告げずに、彼らは彼を謀殺罪のかどで拘置所まで連行した。ウェブスターは最初容疑を否定し、リトルフィールドが見つけた物を告げられたとき、彼は「あの悪漢め! わたしは破産者だぞ」("That villain! I am a ruined man")とさけび、パークマンをせめようとし、彼らのうち2人だけが便所をつかえることに言及した。彼はそれから黙り込み、独房のなかで座り、震え、汗をかいていた。彼は、のちに自分でストリキニーネとみとめたものを口のなかに入れたが、結局、気分が悪くなっただけであった[要出典]。 捜査官らは、遺体の残りのありかを探った。リトルフィールドは、ウェブスターが利用した研究室の炉から骨片1つを見つけたと話し、それを執行官にしめした。便所の全面的な捜索がそれから行なわれ、ウェブスターは現場検証のために拘置所から連れてこられていた。警察官らと検視官が捜索しているあいだに、リトルフィールドは彼らに、自分が砕きとった炉の破片1つをしめしたが、それには骨片が1つ、溶け付いていた。彼らは、彼がそれを見つけた場所に返すように要求した。ウェブスターは、彼らがすでに見つけた複数の部分を置くのをだまって見守り、それから拘置所に連れ返された。 12月1日(土曜日)に、検視陪審が事件の決着を判断するために集められた。彼らがなかに入れられるまえに、検視官と執行官は、最近、丸のみで削られたように見える流し、床と階段にある奇妙な酸のしみ、そして炉の内容物を調査した。その結果、ボタン、硬貨数枚、そして歯の付いたあごの骨をふくむさらなる骨片が見つかった。それから彼らは、悪臭を発する引き出しを開け、腕の無い、頭の無い、毛深い、一部焼かれた人間の胴体1つを見つけた。頭はのこぎりで切り離されたと断定され、のこぎりも見つかった。また、胴体の中には心臓をはじめとする内臓がなく、太もも1つが詰め込まれているのが見つかった。パークマン夫人は陰茎のちかくの複数のしるしで、その遺体は夫のものであると身元を確認した。彼の義理の兄弟は、自分はパークマンの身体の極端な毛深さを見たことがあると言い、その遺体が彼のものであることを確認した。 その後の捜査で、右の腎臓だけでなく、ウェブスターのものである血まみれの衣服が見つかった。しみを調査した結果、血液の除去に効果的である硝酸銅であると判明し、ジェフリーズ・ワイマン(Jeffries Wyman)が到着して、骨片の身元を確認した。彼らは、遺体の検査にふさわしい施設のあるメディカル・カレッジにいたので、彼らは、それらの部分を配置し、試験し、詳細な説明書を書き上げた。彼らは、左の乳房の下に見つかった穴は、傷に似ず血は無かったけれども致命傷となった突き傷であったかもしれない、と推測した。見つかった遺体の身長は5フィート10インチ(約178センチメートル)であると推定され、これはジョージ・パークマンの特徴と一致した。 ボストンの上流階級であるボストン・ブラーミン(英語版)たちは、自分たちの一員であるウェブスターの逮捕を受け入れることが出来なかった。ロングフェローの妻はつぎのように書いた。「ボストンはこの時点で、亡きミスタ・パークマンの運命をひどく心配している...あなたは、どのような暗い恐怖がわれわれに蝕(eclipse)のように影を投げかけるか、書類でわかるでしょう。もちろん、わたしたちは、ドクター・ウェブスターが、証拠がしめすほど悪い、有罪であると考えることはできない....多くの人は管理人(リトルフィールド)を疑い、彼はパークマンの遺体にだされた懸賞金をもとめていた悪人として知られている。彼は、複数の遺体を管理下に置いて、医師に不利なように物事をみせかけることができた。わたしは、わたしたちの心はまもなく安心するだろうが、あらたな詳細によって再三けがされると思う。わたしは、土曜日、彼女の夫の逮捕の翌日に亡きミセス・ウェブスターに会いに行ったが、もちろん、なかにはいることは許されなかった。彼女の人生と娘たちの人生にたいするなんという恐ろしい暗影であろう!たんなる疑いにすぎないもの、なぜこういうかというと、わたしはなにも立証され得ていないと考えるからである」("Boston is at this moment in sad suspense about the fate of poor Dr. Parkman....You will see by the papers what dark horror overshadows us like an eclipse.Of course, we cannot believe Dr. Webster guilty, bad as the evidence looks....Many suspect the janitor, who is known to be a bad man and to have wished for the reward offered for Dr. Parkman's body.He could make things appear against the doctor, having bodies under his control.I trust 「our minds will be soon relieved, but, meanwhile, they are soiled by new details continually.I went to see poor Mrs. Webster on Saturday, the day after her husband's arrest, but of course, was not admitted.What a terrible blight upon her life and that of the girls!The mere suspicion, for I cannot believe anything can be proved.")
また、ハーヴァードの司書ジョン・ラングドン・シブリー(John Langdon Sibley)は12月1日(土曜日)に以下の日記を書いた。 「ドクター・ウェブスターの立つ場所、ドクター・パークマンの失踪以来の彼の行動の変わらない流れ、彼の無技巧とあらゆる犯罪に不慣れなことは、興奮、ゆううつ、すべての遺体のあっけにとられるさまは言いようが無いくらいであった。教授ども ふんっ! 彼は罪を犯したというたんなる疑いで....みんなは食事も喉を通らず、気分を悪くしただろう」("The standing of Dr. Webster,his uniform tenor of conduct since the disappearance of Dr. Parkman,his artlessness & unfamiliarity with the crime of any kind have been such that the excitement, the melancholy, the aghastness of every body are indescribable.The professors poh! at the mere suspicion that he is guilty....People cannot eat;they feel sick.") 12月6日(木曜日)に、何千人もの人々が、パークマンの葬儀のために列をなした。約5000人が犯行現場を見て回っていた[要出典]。
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