川端康成との出会いとは? わかりやすく解説

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川端康成との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「川端康成との出会い」の解説

GHQ占領下の日本では、戦犯烙印押され軍人処刑されただけでなく(極東国際軍事裁判)、要職にいた各界人間公職追放になったマスコミ出版業界も「プレスコード」と呼ばれる検閲が行われ、日本賛美することは許されなかった。戦時中三島属していた日本浪曼派保田與重郎佐藤春夫その周辺中河与一林房雄らは、戦後左翼文学者日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し焦燥感覚える。 戦争混乱で『文藝世紀』の発刊戦後中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。三島終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表され作品読んでいるという手紙受け取っていたが、川端その作品賞讃誰か洩らしていたという噂も耳にしていた。 それを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編煙草」の原稿携え帝大冬休み中の1946年昭和21年1月27日鎌倉二階堂に住む川端のもとを初め訪れた。慎重深く礼儀重んじる三島は、その際野田宇太郎紹介状持参した三島川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本哀しみ日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼神秘世界〉にも深い共感性抱いていた。そういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ川端作品世界相通ずるものであった同年2月三島は七丈書院合併した筑摩書房雑誌展望編集長臼井吉見訪ね、8作の原稿花ざかりの森中世サーカス岬にての物語彩絵硝子煙草、など)を持ち込んだ臼井は、あまり好み作風でなく肌に合わないが「とにかく一種天才だ」と「中世」を採用しようとするが、顧問中村光夫は「とんでもない、マイナス150点(120点とも)だ」と却下し、没となった落胆した三島は、〈これは自分も、地道に勉強して役人になる他ない〉と思わざるをえなかった。 一方、「煙草」を読んだ川端2月15日自身幹部務め鎌倉文庫発行雑誌人間』の編集長木村徳三原稿見せ掲載決定なされた。「煙草」は6月号に発表され、これが三島戦後文壇への足がかりとなり、それ以後川端生涯にわたる師弟関係のような強い繋がり基礎が形づくられた。 しかしながら、その関係は小説作法構成など)の指導批判仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島川端「先生」とは呼ばず、「自分世の中出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び献本する際も必ず「様」と書いた。川端は、三島取りかかっていた初めての長編盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し大学生でもある彼を助けた臼井中村が、ほとんど無名学生作家三島作品拒絶した中、新し才能発掘長け異質な新人寛容だった川端三島後援したことにより、「新人発見名人」という川端称号は、その後さらに強められることになる。職業柄多く新人作家接してきた木村徳三も、会った最初数分で、「圧倒されるほどの資質感知」したのは、加藤周一三島2人かいないとし、三島助言すればするほど、驚嘆する才能輝き誇示」して伸びていったという。 しかし当時借家であった三島の家(平岡家)は追い立てを受け、経済状況困窮していた。父・戦前1942年昭和17年)から天下っていた日本瓦斯用木株式会社10月から日本薪炭株式会社)は終戦機能停止となっていた。三島将来作家として身を立てていく思い傍らで、貧しさ文学影響しないよう(商業的な執筆に陥らぬため)、生活維持のために大学での法学勉強にも勤しんでいた。終戦の日一時息子作家になることに理解示していたが、やはり安定した大蔵省役人になることを望んでいた。 ある日木村徳三三島帝大図書館前で待ち合わせ芝生1時間ほど雑談した際、講義に戻る三島好奇心から跡をつけて教室覗いたその様子を、木村は「三島君が入った二十六番教室のぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい教壇正面二列目あたりに着席する後姿目に入った怠け学生だった私などの考え及ばぬことであった」と述懐している。 同年夏、蓮田善明終戦時自決していたことを初め知らされ三島は、11月17日清水文雄中河与一栗山理一池田勉桜井忠温阿部六郎今田哲夫と共に成城大学素心寮で「蓮田善明偲ぶ会」を開き、〈古代愛でし 君はその身に古代現じ雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉という詩を、亡き蓮田献じた戦後に彼らと距離を置いた伊東静雄欠席し林富士馬も、蓮田の死を「腹立たしい」と批判し佐藤春夫蓮田を庇った。三島偲ぶ会翌日清水宛てに、〈黄菊のかをる集りで、蓮田さんの霊も共に席をならべていらつしやるやうに感じられ、昔文藝文化同人の集ひを神集ひにたとへた頃のことを懐かしく思ひ返しました。かういふ集り幾度かさねながら、文藝文化再興の機を待ちたい存じます如何?〉と送った敗戦前後渡って書き綴られた「岬にての物語」は、川端アドバイスによって講談社の『群像』へ持ち込み11月号に無事発表された。この売り込みの時、三島和服姿で袴を穿いていたという。『人間』の12月号には、川端から『将軍義尚薨逝記』を借りて推敲した「中世」が全編掲載された。 当時三島両親同居はしていたものの、生活費援助受けず自身原稿料で生活を賄い、弟・千之にも小遣い与えていたことが、2005年平成17年)に発見された「会計日記」(昭和21年5月から昭和22年11月まで記載)で明らかになった。この金銭支出記録は、作家として自立できるかを模索するためのものだった見られている。 川端出会ったことで三島プロ作家として第一歩築かれたが、まだ三島この世生まれる前から2人には運命的な不思議な縁があった。三島の父・東京帝大法学部学生の時、正門前で同級生三輪寿壮が、見知らぬ貧弱な一高生」と歩いているところにくわしたが、それが川端だった。その数日後三輪から、川端康成という男は「ぼくらの持っていないすばらし感覚とか神経の持主」だから、君も付き合ってみないかと誘われたが、文学疎かったは、「畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよ」と笑って紹介を断わったという。

※この「川端康成との出会い」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「川端康成との出会い」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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