他国の歴史観との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 21:25 UTC 版)
戦前に高句麗史・渤海史の研究を行った南満洲鉄道株式会社東京支社内に設置された満鮮歴史地理調査部やその事業を東京帝国大学文科大学で移管調査した研究者(白鳥庫吉、箭内亙、松井等、稲葉岩吉、池内宏、津田左右吉、瀬野馬熊、和田清)は、高句麗人・渤海人は北方のツングース民族であり、今日の朝鮮民族の主流をなす韓族ではないと認識し、朝鮮古代史の中心を新羅と見て、満州を舞台に活動した高句麗や渤海等は「満州史」の一部であるという認識をしていた。朝鮮総督府の朝鮮史編纂事業によって刊行された『朝鮮史』には、渤海に関する記事はがほとんど収録されていない。その理由は、当時の日本人研究者の間において、渤海が朝鮮史ではなく満州史と認識されていたためである。朝鮮史編纂事業を行った朝鮮史編纂委員会の第1回編纂委員会で、その席上、李能和からの「渤海は何処へ這入りますか」という質問 に対して、稲葉岩吉は、「渤海に就きましては新羅を叙する処で渤海及び之に関聯した鉄利等の記事をも収載する積りであります」と回答している。今西龍は1930年8月22日に開かれた朝鮮史編修会第 4 回委員会の席上、崔南善からの質問に答えて「渤海も朝鮮史に関係ない限りは省きます」と発言している。また、戦前刊行された朝鮮通史である『世界歴史大系 第十一巻 朝鮮・満洲史』では、高句麗は朝鮮史と満州史の両方でとり上げられているのに対し、渤海は満州史でのみとり上げられ、朝鮮史ではほとんど記述されていない。戦後、満鮮史を批判した旗田巍も渤海史を朝鮮史の一部と見做すことに疑義を持っていたことが知られている。 田中俊明は、南北国時代の歴史観では、渤海・新羅両国が同一民族によって構成され、同族として交渉していたとして、高句麗の旧領の大半は渤海が占めており、高句麗の旧領の一部を新羅が領有したことを挙げるが、渤海・新羅両国が互いに同族意識を持っていたかのかは疑問が多く、「渤海国を構成したのは粟末靺鞨が中心」であり、新羅辺境の靺鞨は自立していただろうとして、8世紀の唐の記録には、新羅人が新羅の東北境の住民のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は、渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感であり、それだけの異域であったことの証左であり、新羅の辺境であり、渤海の辺境地帯でもある地域住民に対して、これだけの異域観がみられることは、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと指摘している。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である。 新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る。 — 新唐書、巻二二〇・東夷伝・新羅 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。新唐書/卷220#新羅 新羅國、東南與日本鄰、東與長人國接。長人身三丈、鋸牙鉤爪、不火食、逐禽獸而食之、時亦食人。裸其軀、黑毛覆之。其境限以連山數千里、中有山峽、固以鐵門、謂之鐵關。常使弓弩數千守之、由是不過。新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず。 — 太平広記、巻四八一・新羅条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。太平廣記/卷第481#新羅 王健群(吉林省文物考古研究所)は、「南北国時代」論者は、渤海は高句麗の故地を占有したので、朝鮮に編入されるべきだと主張するが、その主張には合理性がなく、その主張に従うならば、漢四郡が存在した朝鮮は中国に編入されるべきであり、古代中国の民族の興亡と疆域の変遷はよくあることであり、さらに「南北国時代」論者は、渤海を朝鮮の歴史に編入するが、高句麗と新羅・靺鞨は同族ではないため、渤海を朝鮮の歴史に組み込むことを拒否して、「南北国時代」の用語を使用しなかった金富軾の判断は少しも非合理ではなく、さらに「南北国時代」論者は、高句麗、新羅、百済を同族としているが、高句麗は濊貊、新羅、百済とも同族ではなく、新羅と百済は朝鮮半島南部の韓族であり、濊貊は朝鮮半島中・東部にあり、高句麗は夫余の別種であり、高句麗と新羅は民族に関してはいうまでもなく、国家も互いに別々である。中国の正史は、夫余と濊貊をそれぞれを分けて「傳」を作り、それらが同族ではないことを明確に示しており、朴時亨がいう「新羅は自分と同族国家である高句麗と戦った」という主張は、歴史の事実を反している、と指摘している。 横田安司は韓国で渤海を朝鮮史の一部とみなし、朝鮮史に含める南北国時代論があらわれるようになったのは日本の植民地化での民族主義史学以降である事から、渤海を朝鮮史に含み古代朝鮮の活動範囲を満州にまで広げている韓国の歴史教科書を強烈な民族主義自意識の発露と指摘している。 黄文雄は著書で、「満州族の先祖が築いた高句麗と渤海」との見出しで、「高句麗の主要民族は満州族の一種(中略)高句麗人と共に渤海建国の民族である靺鞨はツングース系で、現在の中国の少数民族の一つ、満州族の祖先である」と高句麗と渤海を満州族の先祖としている。また、黄は「ひるがえって、満州史の立場から見れば、3世紀から10世紀にかけて東満州から沿海州、朝鮮半島北部に建てられた独自の国家が高句麗(?~668年)と、その高句麗を再興した渤海(698~926年)である」とし、高句麗と渤海を満州史としている。 古畑徹は、北朝鮮学界の高句麗・渤海研究を「北朝鮮の高句麗・渤海研究が高句麗・渤海が中国史ではないという点のみに集中し、論証が自己撞着に陥り、学問的に非常に低い水準となってしまっている」と批判している。ちなみに古畑徹は、「高句麗人を自らのルーツのひとつと認識している韓国・朝鮮人だけでなく、金・清を建国した満族などの中国東北地方の少数民族もその先祖はその領域内に居た種族の子孫であり、また高句麗・渤海の中核となった人々はその後の変遷を経て漢族のなかにも入りこんでいることが明らかである。したがって、高句麗・渤海とも現在の国民国家の枠組みでは把握しきれない存在であり、かつそれを前提とした一国史観的歴史理解ではその実像に迫り得ない存在」と評している。 戦後になると石井正敏を初めとする研究者により当時の日本朝廷が国書において新羅と渤海を明確に区分していた事実が指摘されるなど更なる研究が進められ、南北国時代論の恣意的な史料解釈が批判されるなど、韓国史学会の述べる南北国時代論は日本においては定説とはなっていない。
※この「他国の歴史観との対立」の解説は、「南北国時代」の解説の一部です。
「他国の歴史観との対立」を含む「南北国時代」の記事については、「南北国時代」の概要を参照ください。
- 他国の歴史観との対立のページへのリンク