軍令部 軍令部の概要

軍令部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 01:50 UTC 版)

1930年代の海軍省及び軍令部。

概要

海軍省・軍令部の碑(現在の中央合同庁舎第5号館敷地内。揮毫者は海軍出身の中曽根康弘首相)

長たるものは海軍軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は海軍中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。

軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。

設置当初、元老の山縣有朋を含む政府上層部は陸軍を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき、大本営では本来陸軍の軍令機関であるはずの参謀本部の長官である参謀総長が天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。そして日露戦争の直前に、山本権兵衛海軍大臣から戦時大本営条例を改め、海軍将官でも参謀総長になれるようにしたい(すなわち海軍将官が帝国全軍の統帥権を握れるようにしたい)と上奏を受けた明治天皇は、1903年(明治36年)9月12日にこの件を元帥府に諮ることを命じた。しかし元帥府はこの上奏を受け入れず、10月21日明治天皇は徳大寺実則侍従長を通じて山縣有朋元帥陸軍大将に再考を促した。結局、日露戦争が始まる機運があることから陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された(しかし軍令部の改名は受け入れられなかった)。これにより、海軍軍令部長は参謀総長と同等並列に作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに伏見宮博恭王軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた。

しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、特に将校の絶対数では陸軍に大きな差をつけられており、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。これに苦慮した海軍省は海軍報道課長平出英夫海軍大佐(当時)を使って「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した[注釈 1]

また、太平洋戦争中、権力の集中を図るため東條首相の命で、嶋田繁太郎海軍大臣が軍令部総長を兼任した際には、海軍内部で大きな反発が起きたほか、戦力強化のため陸軍からたびたび統合案が持ち出されたが、統帥権を盾に統合を阻んだ。海軍の独立が確保できなければ終戦工作はより困難なものになっていたのではないかと、海軍反省会では指摘されている。

作戦指導の面では連合艦隊司令部に引きずられることが多く、「連合艦隊司令部東京出張所」と揶揄されることもあった。

真珠湾攻撃マレー沖海戦による太平洋戦争の開戦から敗戦に至るまでについての内幕や反省点については、開戦時に一部一課で作戦を担当した佐薙毅をはじめとした部員達の証言が、海軍反省会に残されている。

沿革

  • 1884年(明治17年)2月:海軍省達丙第21号により、海軍省の外局組織として軍事部が設置。
  • 1886年(明治19年)3月:参謀本部条例改正により参謀本部海軍部が設置され、軍政と軍令が分離された。
  • 1888年(明治21年)5月:海軍参謀本部となる。
  • 1889年(明治22年)3月:海軍参謀部となり、再び海軍省の管轄下となる。
  • 1893年(明治26年)5月:勅令第36号海軍省官制改訂により、軍令の管轄が海軍省から分離独立し海軍参謀部に移転する。
  • 1893年(明治26年)5月:勅令第37号海軍軍令部条例により、海軍軍令部が設置される。軍令機関として、陸軍の参謀本部と平時に限り対等関係になる。
  • 1903年(明治36年)12月:勅令第293号戦時大本営条例改訂により、戦時においても軍令機関として陸軍の参謀本部と対等関係になる。
  • 1933年(昭和8年)10月:軍令海第5号軍令部令により、冠の"海軍"が外れ軍令部となり海軍軍令部長から軍令部総長となる。
  • 1945年(昭和20年)10月15日:軍令海第8号によって、廃止される。
旧日本陸海軍の軍令機関の変遷
日付 旧日本陸軍 旧日本海軍 根拠法令
1871年明治4年)7月
兵部省陸軍参謀局
兵部省職員令
1874年(明治7年)6月18日 参謀局 「参謀局條例」
1878年(明治11年)12月5日 参謀本部 旧「参謀本部條例」
1884年(明治17年)2月 軍事部
1886年(明治19年)3月18日
参謀本部
明治19年勅令
1888年(明治21年)5月12日 陸軍参謀本部 海軍参謀本部 明治21年勅令第25号
1889年(明治22年)3月7日 参謀本部 海軍参謀部 明治22年勅令第25号・同第30号
1893年(明治26年)5月19日 海軍軍令部 明治26年勅令第37号
1933年昭和8年)10月1日 軍令部 昭和8年軍令海第5号
1945年(昭和20年) (11月30日廃止) (10月15日廃止) 昭和20年軍令海第8号など

注釈

  1. ^ 「攻めるのには不十分だが守るのには十分」とある様に、当時の日本海軍は、2度に渡る海軍軍縮会議の影響もあり、抑止力を保つために存在するという位置づけだった。
  2. ^ 機関少監とは、機技部の上長官で、少佐相当。
  3. ^ 大機関士とは、機技部の士官で、大尉相当。

出典

  1. ^ 百科事典マイペディア
  2. ^ 明治26年勅令第37号。
  3. ^ 海軍兵学校を中退してドイツ帝国海軍キール海軍兵学校及びキール海軍大学校に学んだため「期外」であるが、事実上18期として扱われた。(野村實『山本五十六再考』1996年、36頁)
  4. ^ 島田俊彦、小林 龍夫 編『現代史資料7満州事変』あとがき島田俊彦「軍令部戦史部始末記」p2-p7


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