観性寺 (館林市)とは? わかりやすく解説

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観性寺 (館林市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/08 05:42 UTC 版)

観性寺


本堂

所在地 群馬県館林市仲町10-12
位置 北緯36度14分58.90秒 東経139度31分43.84秒 / 北緯36.2496944度 東経139.5288444度 / 36.2496944; 139.5288444座標: 北緯36度14分58.90秒 東経139度31分43.84秒 / 北緯36.2496944度 東経139.5288444度 / 36.2496944; 139.5288444
山号 宝塔山[1]
院号 慈眼院 (じげんいん)[1]
宗派 真言宗豊山派
本尊 大日如来[2]
創建年 天正4年(1576年、観音寺)、応永21年(1414年、自性院)[2]
開基 法印弘喜(観音寺)、法印俊栄(自性院)[2]
正式名 宝塔山慈眼院観性寺
札所等 関東八十八ヵ所霊場14番[3]新上州観音霊場三十三カ所9番
公式サイト https://kanshouji-tatebayashi.jp/
法人番号 5070005006626
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観性寺(かんしょうじ)は、群馬県館林市仲町にある真言宗豊山派寺院である。本尊は大日如来。寺のは「丸に桔梗」[2]

寺紋:丸に桔梗

歴史

館林城絵図(秋元時代)における、材木町観音寺と鞘町自性院

観音寺

天正4年(1576年)5月、法印弘喜により材木町に創建される[4]遍照寺末であったとの記録がある[5]嘉永元年(1848年5月19日[注釈 1]の火災で堂宇は全て焼失したが、翌2年(1849年)7月に再建[4]1897年明治30年)[注釈 2]7月に再度火災に遭い、1906年(明治39年)6月に本堂を再建している[4][注釈 3]

1908年(明治41年)10月29日、群馬県の許可を得て、北東の鞘町に存在し隣接していた、同じ真言宗豊山派の自性院を合併[4]。同寺の本尊不動明王を引き取り、また仁王門を境内に移した[1][2][4]。その後1910年(明治43年)に県の許可を得て、観音寺の「観」と自性院の「性」を取って観性寺と改称したという[2][4]1911年(明治44年)には、やはり自性院の一部であったとされる、薬師堂を移築した[1][2][6][注釈 4]

1969年昭和44年)、『館林市誌 歴史編』刊行の頃の記録では、境内面積377坪(約1246㎡)、檀家数は約170戸[4]

自性院

応永21年(1414年、法印俊栄により、鞘町に不動明王を本尊とする真言宗寺院として創建される[2]。館林市富士原町の富士嶽神社別当寺でもあった[5]

堂宇と文化財

本堂

入母屋造の瓦葺で、1996年平成8年)に改築再建されたという[3]。内陣には本尊の大日如来を中心として、不動明王、如意輪観音が祀られている[3]

仁王門

赤門と呼ばれ、自性院から移されてきたもの[3]。門内両脇には同じく自性院から移されてきた仁王像が配置されている[4][注釈 5]

薬師堂

1911年(明治44年)に、自性院にあった大きさ4坪(13.2㎡)の薬師堂を移してきたものである[2][4]。それ以前の来歴は、元々は内加法師(現館林市朝日町)に存在した薬師堂であったが、榊原康政による館林城拡張工事に伴い、文禄元年(1592年)に鞘町に移されたものであったという[1][7][注釈 6]

古くから「材木町の薬師様」として崇敬を受け[注釈 7]、旧暦4月28日の釈迦花祭には、大変賑わったとされている[6][4]。特に目の不自由な人からの信仰を集めたとされており、「目」が描かれたものなど多くの絵馬が納められた[1]。館林出身の画家小室翠雲の虎図・龍図や、俳人荒井閑窓の額なども奉納されている[2]

山王堂

6尺(約1.8m)四方の小堂で、薬師堂の南にある[2][4]。寺から3kmほど西方の、成島村(現館林市成島町)の林の中にかつてあったとされる、秘仏の石造山王権現像を祀っている[2][8][注釈 8]。昔から女性特有の病苦に対する霊験があるとの評判があり、参詣者も多かった[4][8]。一説によると、この寺が廃寺になりかけたところを、この山王権現の存在のおかげでまぬがれたともいわれている[4]

阿弥陀三尊石仏

高さ62cm、幅53cmほどの石造阿弥陀三尊像で、現在は館林市第一資料館に寄託されている[9]鎌倉末期の製作と推定されており、館林城跡旧本丸にある宝塔の笠とならんで、館林市では貴重な鎌倉期の石造遺物となっている[9]。三尊とも半肉彫りで、中央の阿弥陀如来は坐像で光背を持ち、壺型の敷茄子を持った蓮坐がある[9]。左右脇侍観音菩薩勢至菩薩は立像となっている[9]風化が著しく、像の表情や衣文などは判別が難しい[9]

人物

南部儀善

を快歓、峻雲と号した[10]。明治4年(1871年)から10年間、当寺[注釈 9]の住職を務め、その間周辺の子弟を集め、漢学と書道の教育を施した[10]館林尋常小学校の沿革史には、1874年(明治7年)1月「南部儀善助教補トナル、明治十年三月職ヲ辞ス」と記されており、開設当初の館林小学校の教員も務めている[10]学制頒布[注釈 10]以前は、明治初年頃から小桑原の密蔵寺に出張教授を行っていた[10]

弘化2年(1845年)、近江国彦根に生まれ、大和国長谷寺で仏法を修めた[10]文久3年(1863年)に師と共に江戸に移って仏門修行を続け、その後先述のとおり館林に住まいし当寺住職となった[10]1882年(明治15年)館林を離れ、新田郡上矢島(現伊勢崎市境上矢島)の徳蔵寺に移り、「三餘義塾」を設立して、1200人にも及ぶ子弟を教育したという[10]1917年(大正6年)2月に没し、享年73歳[10]。墓所は徳蔵寺であり、他に峻雲翁頌徳碑が同寺境内に残る[10]

ギャラリー

境内

薬師堂絵馬

交通アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 『館林の社寺』によると、5月18日[1]
  2. ^ 『館林の社寺』によると、1904年(明治37年)[1]
  3. ^ この本堂が先代の本堂に当たるが、間口は5間4尺(約10.3m)、奥行3間(約5.5m)、内陣2坪(約6.6㎡)であったという[4]
  4. ^ 観性寺に現存する、1911年(明治44年)に移されたとされる薬師堂は、観性寺と同じ材木町内に存在した、法性院の薬師堂であるとする文献もある[4]。観性寺に現存する薬師堂には古来「材木町の薬師」として信仰を集めてきたとする記述が複数の文献で見られており[1][2][4][6]、鞘町自性院の薬師堂であるとする本稿で採用した説はこれと矛盾するが、材木町法性院説であれば矛盾しない。しかし、鞘町と材木町は隣接し至近であるため、鞘町にあっても材木町の薬師と呼ばれる可能性も否定できないこと、複数の古地図で、自性院に薬師堂は確認できるが法性院には確認できないため、知名度は自性院の薬師堂が上であったと推測されること、より最近の研究成果と考えられる『館林市史 別巻 館林の寺社と史料』が自性院説を採用していることなどより、本稿では自性院の薬師堂であるとする説を採用した。
  5. ^ 『館林市誌 歴史編』によると、同書刊行の頃は仁王門を入って右手の観音堂には、法性院から移された別の仁王像一組が存在したようである[4]2022年の現況では、観音堂は既に存在していない。
  6. ^ 『館林御城地根記』には、「文禄元壬辰鞘町薬師堂を内加法師に有之所引移す」との記録がある[7]。この時の奉行は石川左次右衛門であったという[7]
  7. ^ 多くの文献がこの記録を残している[1][2][4][6]が、本薬師堂が材木町に移ったのは1911年(明治44年)以降であり、この呼称はそこまでしか遡れない可能性がある。それ以前にあった鞘町と材木町は隣接し至近であるため、鞘町にあっても材木町の薬師と呼ばれていた可能性もある。本薬師堂は鞘町自性院のものではなく、材木町法性院のものであったとする文献もある[4]
  8. ^ 尊像の高さは1mほど、如意輪観音のごとく右手で頬をつき左手には数珠を握り、下半身は女性の秘所を露わにして股間を開いてしゃがんだ像容となっている[8]。かつては境内に露座仏として祀られ、その像容ゆえ女性の性病の悩みについての信仰を集め、平癒の際には紅殻を像の局所に塗ってお礼をする風習があった[4][8]。しかし太平洋戦争中に警察署より「このいうものを人目にさらすと風紀を乱す」との通達を受けたため、やむなく寺では、山王堂内の厨子に納め、以後秘仏としたという[1][8]
  9. ^ ただし当時は観音寺
  10. ^ 明治5年8月2日1872年9月4日

出典

参考文献

  • 館林市誌編集委員会『館林市誌 歴史編』館林市役所、1969年、837,886-887,929頁。 
  • 川島維知 編『館林双書5巻』館林市立図書館、1975年、31-33,75頁。 
  • 館林市立図書館 編『館林郷土史事典 館林双書7巻』館林市立図書館、1977年、78頁。 
  • 館林市立図書館 編『館林の社寺 館林双書15巻』館林市立図書館、1986年、56-57頁。 
  • 青木源作『邑楽館林史帖』みやま文庫、1994年、35-37,192頁。 
  • 『文化財総合調査 館林市の民俗 たてばやしの民俗』館林市教育委員会文化振興課、1999年、75頁。 
  • 館林市史編さん委員会 編『館林市史 別巻 館林の寺社と史料』館林市、2020年、27頁。 
  • 関東八十八ヵ所霊場. “第十四番霊場 宝塔山 観性寺”. 2022年11月28日閲覧。

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