観性寺 (館林市)
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観性寺(かんしょうじ)は、群馬県館林市仲町にある真言宗豊山派の寺院である。本尊は大日如来。寺の紋は「丸に桔梗」[2]。
注釈
- ^ 『館林の社寺』によると、5月18日[1]
- ^ 『館林の社寺』によると、1904年(明治37年)[1]
- ^ この本堂が先代の本堂に当たるが、間口は5間4尺(約10.3m)、奥行3間(約5.5m)、内陣2坪(約6.6㎡)であったという[4]。
- ^ 観性寺に現存する、1911年(明治44年)に移されたとされる薬師堂は、観性寺と同じ材木町内に存在した、法性院の薬師堂であるとする文献もある[4]。観性寺に現存する薬師堂には古来「材木町の薬師」として信仰を集めてきたとする記述が複数の文献で見られており[1][2][4][6]、鞘町自性院の薬師堂であるとする本稿で採用した説はこれと矛盾するが、材木町法性院説であれば矛盾しない。しかし、鞘町と材木町は隣接し至近であるため、鞘町にあっても材木町の薬師と呼ばれる可能性も否定できないこと、複数の古地図で、自性院に薬師堂は確認できるが法性院には確認できないため、知名度は自性院の薬師堂が上であったと推測されること、より最近の研究成果と考えられる『館林市史 別巻 館林の寺社と史料』が自性院説を採用していることなどより、本稿では自性院の薬師堂であるとする説を採用した。
- ^ 『館林市誌 歴史編』によると、同書刊行の頃は仁王門を入って右手の観音堂には、法性院から移された別の仁王像一組が存在したようである[4]。2022年の現況では、観音堂は既に存在していない。
- ^ 『館林御城地根記』には、「文禄元壬辰鞘町薬師堂を内加法師に有之所引移す」との記録がある[7]。この時の奉行は石川左次右衛門であったという[7]。
- ^ 多くの文献がこの記録を残している[1][2][4][6]が、本薬師堂が材木町に移ったのは1911年(明治44年)以降であり、この呼称はそこまでしか遡れない可能性がある。それ以前にあった鞘町と材木町は隣接し至近であるため、鞘町にあっても材木町の薬師と呼ばれていた可能性もある。本薬師堂は鞘町自性院のものではなく、材木町法性院のものであったとする文献もある[4]。
- ^ 尊像の高さは1mほど、如意輪観音のごとく右手で頬をつき左手には数珠を握り、下半身は女性の秘所を露わにして股間を開いてしゃがんだ像容となっている[8]。かつては境内に露座仏として祀られ、その像容ゆえ女性の性病の悩みについての信仰を集め、平癒の際には紅殻を像の局所に塗ってお礼をする風習があった[4][8]。しかし太平洋戦争中に警察署より「このいうものを人目にさらすと風紀を乱す」との通達を受けたため、やむなく寺では、山王堂内の厨子に納め、以後秘仏としたという[1][8]。
- ^ ただし当時は観音寺
- ^ 明治5年8月2日(1872年9月4日)
出典
[続きの解説]
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- 1 観性寺 (館林市)とは
- 2 観性寺 (館林市)の概要
- 3 人物
- 4 脚注
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