牽牛子塚古墳 出土遺物

牽牛子塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 22:25 UTC 版)

出土遺物

以前の調査や採集によって、すでに夾紵棺(きょうちょかん)の破片や金銅製の棺金具七宝亀甲形座金具、八花文座金具、六花文環座金具、円形座金具、綾隅金具)、また製の鎹(カスガイ)、鉄製のガラス玉などの類、人骨(臼歯)などの遺物が出土している[3]。「夾紵棺」(きょうちょかん)とは麻布をで何重にも貼り重ねてつくった当時としては最高級のであり、貴人葬送に用いられたことは疑いない。臼歯は間人皇女のものとの説がある[6]

1953年昭和28年)11月14日、遺物は考古資料として極めて重要であるとして、一括して「大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定され、指定分は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に保管されている。

遺跡性格

鬼の俎(明日香村野口)
鬼の雪隠(明日香村平田)
益田岩船(橿原市)
斉明天皇

時期

築造年代は、遺物等から7世紀後葉の年代が推定され[1]、年代幅を広くとっても7世紀中葉から8世紀初頭までの範囲に収まる。

飛鳥地方の横口式石槨墳については、益田岩船(橿原市白橿町)や鬼の爼・鬼の雪隠(明日香村野口・同平田)の遺構が知られ、前者は本古墳と同じく刳り抜き式の横口式石槨、後二者は床石と蓋石が別々に構成されるタイプの石槨と考えられる[1]大阪府寝屋川市に所在する石宝殿古墳の石槨は後者の類型に属するが、羨道をともなっており、そのことより、

  • 羨道をもつタイプ → 羨道をともなわないタイプ
  • 床石と蓋石が別々に構成されるタイプ → 刳り抜きタイプ

編年が考えられる[1]。つまり、石宝殿古墳の石槨は、このなかでは最も旧いことになる。

石材から年代を検討すると、益田岩船や鬼の爼・鬼の雪隠では硬質の石英閃緑岩が、本古墳では軟質の凝灰岩が使用される。飛鳥地方の他の古墳の事例からは、6世紀から7世紀中葉までは、やはり花崗岩等の硬質な石材、7世紀後半からは大阪・奈良の府県境にある二上山系の凝灰岩に推移する傾向がみてとれる[1]

以上を総合すると、飛鳥地方の横口式石槨墳は、

  • 鬼の爼・鬼の雪隠 → 益田岩船 → 牽牛子古墳

の先後関係が考えられる。

被葬者

斉明天皇の夫舒明天皇の陵墓(段ノ塚古墳)、子の天智天皇の陵墓(御廟野古墳)および天武天皇の陵墓(野口王墓、持統天皇との合葬墳)がいずれも八角墳であり、今回の精査によって、本古墳もまた当時の皇族の陵墓に特徴的な八角墳であることが確認された[9]。また、本古墳が築造当初より合葬が明確に計画されていたことは調査成果によっていっそう明らかになった。さらに、加工石をこれほどふんだんに用いた古墳は他に類例がなく、古墳自体が巨大な石造記念物であることも明らかとなった。以前より知られていた夾紵棺や臼歯の存在、また『日本書紀』における斉明天皇・間人皇女合葬の記述とあわせて、本古墳が斉明天皇陵である可能性はさらに高まった。

いっぽう宮内庁は、本古墳から西南西の方向へ2.5キロメートル離れた、奈良県高市郡高取町大字車木に所在する車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定してきたため、おおかたの研究者との見解とのあいだに齟齬が生じている。そのため、真の継体天皇陵として有力視される今城塚古墳大阪府高槻市)や真の文武天皇陵として有力視される八角墳中尾山古墳(奈良県明日香村平田字中尾山)などと同様、従来の陵墓の治定を見直す必要があるのではないかという議論が起こっている。しかし、宮内庁書陵部では斉明天皇陵「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)」の候補地として牽牛子塚古墳が有力であるとする説があることを認めながらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている[5]

葬送者

『日本書紀』には、「天智天皇は、母である斉明天皇の命令を守り、大工事をしなかった」と記している。これは、被葬者を斉明天皇とみなすことについての慎重論の根拠たりうるが、被葬者が斉明天皇であるとした場合でも、葬送者は天智天皇ではないことの論拠ともなりうる。そのいっぽうで『続日本紀』には、斉明天皇陵(越智崗上陵)が「修造」されたとの記事が文武天皇3年(699年)のこととして記されており、この記載を根拠に、この年、斉明天皇が文武天皇により改葬されたのではないかと考える研究者もいる[5]。なお、文武天皇は斉明天皇からみれば曾孫にあたる。

隣接する古墳の発見

牽牛子塚古墳(奥)と越塚御門古墳(手前)

2010年12月9日、明日香村教育委員会は牽牛子塚古墳隣接地より古墳を検出したことを発表した。牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓であるならば、新発見の越塚御門古墳は、斉明陵墓の前に孫の大田皇女を葬ったという『日本書紀』の記載より、大田皇女の墓である可能性が高い[10]


  1. ^ a b c d e f g 牽牛子塚古墳奈良県明日香村
  2. ^ 飛鳥のアサガオ 奈良・牽牛子塚古墳、完全復元 毎日新聞 2022年3月3日 大阪朝刊
  3. ^ a b c d e 大塚・小林(1982)p.108-109
  4. ^ a b c 牽牛子塚古墳 斉明天皇陵と特定 八角構造が判明/奈良 毎日新聞 2010年9月9日
  5. ^ a b c d e 牽牛子塚古墳:権威誇示 重量550トン、堅固な石の宮殿 毎日新聞 2010年9月9日
  6. ^ a b 墳丘は八角形、「斉明陵」強まる=牽牛子塚古墳、発掘で確認―奈良・明日香村 時事通信社 2010年9月9日
  7. ^ 朝日新聞 2010年9月10日
  8. ^ 泉森皎「牽牛子塚古墳」 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第3巻 原始3』同朋舎出版 1991年 34ページ
  9. ^ これについて、八角形は道教では「全世界」を意味することから死後も支配者であることを形状にこめたのではないかという見解がある。——牽牛子塚古墳:権威誇示 重量550トン、堅固な石の宮殿毎日新聞 2010年9月9日
  10. ^ 牽牛子塚古墳は斉明天皇陵か、実証の小古墳発見 読売新聞 2010年12月9日
  11. ^ 大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  12. ^ a b c 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁


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