建造時期・用途
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 07:07 UTC 版)
文献などが残っておらず確かなことは不明だが、江戸時代には観光地として存在が知られていた。岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7世紀頃の建造と推定されている。 石碑の台石説最も古くからある説で、弘仁13年(822年)に築造された益田池を讃えた弘法大師の書による石碑を載せるための台であったとしている。通称の「益田岩船」もこれに由来する。後に碑は高取城の石垣を造るための用材として破砕されたため、台石のみが残されたとする伝承もある。 占星術用の観測台説二つの穴に石柱を建て、その上に横柱を渡して天体観測したという説。 火葬墳墓説穴の中に遺骨を入れて石の蓋をするという説。 物見台説 横口式石槨説現在有力視されている説。南東500mほどの場所にある牽牛子塚古墳は横口式石槨であるが、岩船の穴の形状もこれと似ているため、同じように古墳として造られ、完成時には現在の北壁面を下に横転させ古墳石室とする予定だった。また東側の穴と違い、西側の穴には水が溜まらないことから、後者にはひびが入っていることが分かっている。このため、建造途中で破損が判明し、放棄したのではないかとの説がある。岩船は北壁面が端から格子状に彫られ縦溝が30条、横溝が7条あり、幅の平均的なこの線彫りは荒削りで整形途中で放棄されたと見ることができる。猪熊兼勝は、益田岩船は大阪府寝屋川市の石室の露出した石宝殿古墳に酷似し、この2つの石造物と同様な構造をもつ完成品は、牽牛子塚古墳石室しかないので、牽牛子塚古墳石室の完成までに益田岩船、石宝殿古墳で二度の失敗を繰り返した後、軟質の凝灰岩の石室で完成させたものが、牽牛子塚古墳であるという説を提唱している。
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