橋本真也 来歴

橋本真也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 20:08 UTC 版)

来歴

新日本プロレスに入門

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校[注釈 1]時代に母を亡くした。両親とは縁が薄く、養育したのは実質的に祖母であった。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。同期は武藤敬司蝶野正洋船木優治野上彰。入門初日に後に闘魂三銃士のユニットを組む蝶野と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした[注釈 2]。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビュー。憧れの先輩である前田日明を真似たニール・キックスープレックスを若手時代から用い前座戦線で活躍した。当時旗揚げしたばかりのUWFへの入団を高田伸彦から誘われたこともあった。

1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出立[1]カナダカルガリー地区(ハート・ファミリー主宰のスタンピード・レスリング)にてモンゴル人ギミックヒールハシフ・カーンHashif Khan)』として試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった[要出典]。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められたときに女性器を描き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている[要出典]。スタンピード・レスリングでは、オーエン・ハートマイク・カーシュナーフィル・ラフルールジェリー・モローブライアン・ピルマンミスター・ヒトジェイソン・ザ・テリブルレオ・バークスティーブ・ブラックマンなどと対戦した[2][3]

1988年(昭和63年)7月29日、『サマー・ファイト・シリーズ』有明コロシアム大会に出場するため急遽帰国。武藤&蝶野とのトリオで、藤波辰巳木村健吾越中詩郎組と6人タッグマッチで対戦。結果は反則勝ちだったがトップ選手相手に暴れまわりファンに強烈な印象を与え、レスラーの大量離脱などで暗い話題が多かった当時の新日本プロレスに新時代を呼び込むきっかけを作る。

同年11月11日に開幕した『88ジャパンカップ・イリミネーション・リーグ戦』には藤波&蝶野とのトリオで出場。12月7日、大阪府立体育会館で決勝戦が行われ、猪木、長州力星野勘太郎組と対戦。準優勝に終わる。

1989年(平成元年)1月よりアメリカ合衆国テネシー州メンフィスCWAに『ショーグン・マサムネShogun Masamune)』のリングネームで参戦[4]トージョー・ヤマモトマネージャーに迎え、サムライ・シンジこと笹崎伸司とヒールの日本人タッグチームショーグン&サムライThe Shogun & The Samurai)』を結成。エースのジェリー・ローラーをはじめ、ビル・ダンディーオースチン・アイドルトレイシー・スマザーズ、ブレイク前のスコット・スタイナージェフ・ジャレットロード・ヒューマンガスとも対戦した[4]

同年4月24日、新日本プロレスの初の東京ドーム興行『'89格闘衛星☆闘強導夢』に出場。IWGPヘビー級王座決定トーナメントの1回戦で長州力と対戦し首固めで勝利。準決勝でソビエト連邦初のプロレスラー集団「レッドブル軍団」のビクトル・ザンギエフ足4の字固めで下す。決勝戦でビッグバン・ベイダーと対戦するが、ラリアット2連発で敗退。試合後に脳震盪を起こし担架で運ばれた。

7月28日、埼玉・戸田市スポーツセンターでウラジミール・ベルコビッチを相手に帰国第一戦を行う。『'89格闘衛星 日米ソ3国対抗戦シリーズII』から日本に定着した。8月の『'89格闘衛星 日米ソ3国対抗戦シリーズII』では、ベイダーやサルマン・ハシミコフら米ソのトップ選手と特別試合を組まれるが、いずれも敗退。9月20日、『ブラディ・ファイト・シリーズ』大阪城ホール大会で、長州&飯塚孝之が保持するIWGPタッグ王座マサ斎藤と組んで挑戦。18分52秒、橋本が飯塚をフォールして第11代IWGPタッグ王者となる[5]

翌9月21日、横浜文化体育館でベイダーのIWGPヘビー級王座に挑戦。タイトルマッチながらノーTVで行われたこの試合はベイダーの一方的ペースで進み、10分8秒にビックバン・クラッシュで敗退。リングサイドでこの試合を観戦していた猪木は試合後、橋本を厳しい表情で叱咤しビンタで喝を入れた。

10月13日、『闘魂シリーズ』開幕戦の後楽園ホール大会において、斎藤と組んで蝶野&長州と対戦。蝶野の凱旋帰国試合だったが、開始のゴングが鳴る前から蝶野と橋本が激しくぶつかり合い、蝶野の額から予想外の大流血。傷の手当を終えリングに戻った蝶野が大暴走して喧嘩試合となり、2分39秒橋本組の反則勝ち。試合内容に納得がいかないファンが苛立ちを見せ会場は暴動寸前となった。

11月3日、後楽園ホールで行われた『闘魂シリーズ』最終戦でベイダーとシングルマッチで対決。肉弾戦の末、リングアウト勝ちながらベイダーに初勝利し、近い将来、天下取りを期待される若武者としてファンの支持を得る。

12月6日、大阪府立体育館で行われた『'89ワールドカップ争奪リーグ戦』決勝トーナメント準決勝で、トップ外国人の一角のスティーブ・ウィリアムスと対戦しリングアウト勝ちを収める。翌12月7日、両国国技館で行われたワールドカップ争奪リーグ戦決勝トーナメント優勝戦で長州と対戦。長州は同世代のレスラーの藤波や木村の得意技である稲妻レッグラリアットドラゴンスリーパーを繰り出して橋本に勝利したが、橋本のミドルキックを受け続けた長州の右腕は腫れ上がって動かすことができず、試合後の橋本の握手に応じられないほどであった。

1990年2月10日、『'90スーパーファイト in 闘強導夢』のメインイベントで蝶野とタッグを組み、猪木&坂口征二と対戦。試合直前のインタビューで「時は来た!」と名言を残す。試合は蝶野が猪木の延髄斬りに敗れた。

4月13日、東京ドームで行われたWWF全日本プロレス、新日本プロレスの3団体合同興行『日米レスリング・サミット』に出場。斎藤とのコンビで長州&蝶野を相手にIWGPタッグ王座防衛戦を行い、3度目の防衛に成功した。

4月27日、『新闘強STATION BAY N.K.』で、凱旋帰国となる武藤敬司と蝶野のコンビを相手にIWGPタッグ王座の防衛戦を行うが、マサ斎藤が武藤のラウンディング・ボディ・プレスで敗れ王座から転落する。

闘魂三銃士結成

海外修行から帰国後、闘魂三銃士として武藤や蝶野と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名をもらっている[注釈 3]。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。

この時期の橋本はベイダー、スコット・ノートントニー・ホームといった巨漢外国人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開していた。橋本は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットやパワーボムをほとんど使用せず[注釈 4]あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年(平成5年)、橋本は前年にIWGPヘビー級王座を獲得したグレート・ムタG1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ停滞気味であったが、WAR天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付けると、9月20日にはそのムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった[6]。その後、藤波に敗れてIWGPヘビー級王座を一度は手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲いた。これ以降、1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れるまで9度の当時連続防衛記録を達成した。その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。

ミスターIWGPとして君臨

1996年(平成8年)4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGPヘビー級王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将でもある高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。なお、前年から抗争が勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997年(平成9年)8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れ、IWGPヘビー級王座を奪われて以降は橋本がIWGPヘビー級王座に着くことはなかったが、通算20度の防衛を果たした。

新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したもののその一方でG1 CLIMAXのタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年(平成10年)に藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り、念願のG1 CLIMAX優勝を果たした。

小川直也との抗争

柔道家小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年(平成9年)4月の初戦(小川のプロレスデビュー戦)は敗れたが、翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年(平成11年)1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後、両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。橋本は試合後の記者会見で「初めにいいの一発もらっちまったが(橋本は小川のパンチで鼻骨を骨折)、(小川は)目がイっていた」と、小川陣営が興奮剤などを使っていたと匂わせるコメントをした[7]。当時全日本プロレス三沢光晴全日本プロレス中継内で、「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡も「セメントマッチ」であったと語っている[8]。小川はSTOという大外刈りをアレンジした受け身の取りづらい技を編み出しており、橋本はその対策が急務であった。

10月にも小川に敗れ、2000年(平成12年)4月7日東京ドームで行われた5戦目は「負けたら引退」を公約し、試合に臨んだ。橋本もSTO封じを習得し、ダウン中の小川にジャンピング・エルボーを仕掛けた際には小川の腕を脱臼させるなど勝利に近づいたものの、その後の関節技で小川の脱臼が偶然にも嵌ってしまい、両腕が自由になった小川のSTO連発を受けて大敗を喫した。その後の公約通り、橋本は新日本に辞表を提出した。橋本はダウンカウントを取られている際には、STOの衝撃により目の焦点が合っておらず「もうダメだ」とも発言しているような動きが見られ、実況の辻よしなりも「立ってくれ橋本!」と絶叫した。

3度目の戦いは結果として社会的注目を浴び、1999年10月に行われた4戦目と「負けたら引退」を公約した5戦目の試合結果は、その日の『ニュースステーション』のスポーツコーナーでも伝えられた。

新日本プロレス解雇 - プロレスリングZERO-ONE旗揚げ

プロレスリングZERO-ONE時代の橋本真也。

2000年(平成12年)8月23日、橋本は熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明した。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州らの反対にあった。その結果、橋本は11月13日付で新日本を解雇されたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後、ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩でもある大谷晋二郎高岩竜一が合流した。

2001年(平成13年)3月2日、橋本は両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ、旗揚げの挨拶を行った。メインイベントの試合で橋本は新日本の永田裕志と組んでノアの三沢&秋山準と対戦したものの、試合は19分10秒、三沢のジャーマン・スープレックス・ホールドで橋本がまさかのフォール負けを喫した。他にも、大谷が村上一成にKO負けし、高岩はアレクサンダー大塚と組んで大森&高山善廣に敗退するなど、初陣のZERO-ONE勢は全敗であった。メインイベントである橋本の試合後には、ノア勢に小川、藤田和之らも入り乱れての大乱闘に発展し、プロレス界に大波乱を巻き起こした。この時小川は三沢にマイクで「今度は三沢だからな!」と次期対戦をマイクでアピールし、三沢も珍しく「やってやるよ」とマイクで応戦している。後にこの後、小川とは和解してZERO-ONEにて共闘し「OH砲」として人気を得た。

三冠ヘビー級王座奪取、長州との決戦 - ハッスル・キング

2003年(平成15年)になると、橋本はZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発。頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠ヘビー級選手権に勝利した。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて小川と組み武藤&小島聡に勝利したが試合後に川田利明が乱入し、そして7月、橋本&小川VS武藤&川田のタッグマッチにおいて、試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで橋本も三冠ベルトを返上した。

11月、長州へ東京スポーツ紙上で口撃を行い、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入する。同年12月団体戦、2004年(平成16年)2月にはシングルで長州と激突し、勝利した。

2004年(平成16年)2月、三冠ヘビー級王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れた(セコンドからタオル投入)。なお、橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。

2004年(平成16年)からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

プロレスリングZERO-ONE崩壊、闘病 - 最期

2004年8月31日、岩手県営体育館にて大谷&大森に敗れ、藤原喜明と組んで保持していたNWAインターコンチネンタルタッグ王座から陥落[9]。この試合を最後に故障などがあって長期欠場に入るが、この後に団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て橋本が自ら被ることで決着がついた。

1人でフリーの道を歩むことなった橋本は、長い間治療せず放置していた右肩を手術しリハビリをしながらリングへの復帰を目指していた。ところが2005年(平成17年)7月11日午前8時頃、横浜市内の滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送された。午前10時36分に搬送先の横浜市立大学附属市民総合医療センターで橋本の死亡が確認された[10]。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。

7月16日に行われた橋本の葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は最も大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。棺[注釈 5]が霊柩車に運ばれた際、友人でもあるKBCアナウンサー高島宗一郎(当時、現福岡市長)の涙声の絶叫[注釈 6]に続き、出棺時に橋本の入場曲でもある『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、橋本の遺体は久保山斎場で火葬された。旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷も棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名は「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」であった。

テレビ朝日のバラエティ番組でもある『ロンドンハーツ』(2005年7月19日放送)が、橋本の生涯最後のテレビ番組出演だった。(後述のエピソードを参照。)

2006年(平成18年)、『力道山』(日韓合同制作)が日本で上映された。橋本は生前、東浪役で出演していてこれが橋本の遺作となった[注釈 7]

2008年(平成20年)3月2日、橋本の功績を称え2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

2011年(平成23年)7月11日、七回忌という節目を機に公式の七回忌追悼オリジナル写真集が発売された。『永遠の破壊王』

2015年(平成27年)7月13日、十回忌という節目で新日本プロレス主催で後楽園ホールで『橋本真也復活祭』を開催、所縁のレスラーが集結した。メインイベントでは、橋本の息子の橋本大地と永田のシングルマッチが組まれた。


注釈

  1. ^ 中京商業高等学校、現在の中京高等学校
  2. ^ その頃の橋本はまだお互いに打ち解けていない間柄だったので「僕が先に使っていた」、「いや、君の前に僕が使っていたんだ」という口調で争っていたと著書に記されている。
  3. ^ いきなり!フライデーナイトに藤波がゲストで出演した際に当時「戦う渡辺徹」と呼ばれていた若手時代の橋本が同行しており、渡辺と橋本の2ショット写真が撮られ、それがプロレス雑誌に記載された。ちなみに、当時は橋本より渡辺のほうが肥満体の巨漢だった
  4. ^ 同期で、ライバルの武藤や蝶野にも似た傾向が見られる[要出典]
  5. ^ なお体格ゆえに棺には蓋ができず、代わりに中京商業高校柔道部の旗が被せられた。
  6. ^ ちなみに台詞は「ありがとう破壊王!(中略)破壊王、橋本真也~!!」だった。
  7. ^ 韓国では2004年に上映。
  8. ^ 金澤克彦によると、次の日学校にウィリーが入場時に頭に巻いていたバンダナを真似して登校したところ、タイガー・ジェット・シンが頭に巻いているターバンと勘違いされたらしい
  9. ^ 二人の対談によると橋本は海外遠征にも出ておらず怪我をしていて欠場したのかどうか不明としている。
  10. ^ 小川は、猪木から「橋本を殺せ」とのメッセージを受けていたという。
  11. ^ DSE側のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用で来日したケアーに、橋本が許可無く会って、ZERO-ONE参戦の交渉をした」というもの
  12. ^ 当時レフェリー兼マッチメイク担当(レスラーの対戦予定などを決める)で、橋本を干した本人だったミスター高橋によれば、橋本は大先輩の星野勘太郎に相談し二人で詫びを入れに来たという
  13. ^ これが後の橋本と長州の確執の発端となった。

出典

  1. ^ a b c 『THE WRESTLER BEST 1000』P147(1996年、日本スポーツ出版社
  2. ^ The Stampede matches fought by Shin'ya Hashimoto in 1987”. Wrestlingdata.com. 2023年10月16日閲覧。
  3. ^ The Stampede matches fought by Shin'ya Hashimoto in 1988”. Wrestlingdata.com. 2023年10月16日閲覧。
  4. ^ a b The USWA matches fought by Shin'ya Hashimoto in 1989”. Wrestlingdata.com. 2023年10月16日閲覧。
  5. ^ IWGP Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2023年10月16日閲覧。
  6. ^ IWGP Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2023年10月16日閲覧。
  7. ^ 橋本真也 vs 小川直也 THE 死闘 VHS版
  8. ^ 佐山聡が明かす橋本vs小川、セメントマッチの真実 スポーツナビ、2008年(平成20年)1月11日
  9. ^ デビュー30周年記念『“破壊王”橋本真也 ゼロワン激闘録』 G Spirits / Gスピリッツ
  10. ^ ""破壊王"橋本真也が急死 まだ40歳 死因は「脳幹出血」と代理人発表". デイリースポーツ. 神戸新聞社. 12 July 2005. 2021年5月26日閲覧
  11. ^ (日本語) 【年末特別企画】マジでエグい!恐ろしい!「痛かった技&◯ぬかと思った技」まとめました!, https://www.youtube.com/watch?v=02v329fmgsQ 2022年12月28日閲覧。 
  12. ^ 【ベスト5発表!】後遺症が残るほど危険な破壊力!痛かった技ベスト5発表!”. 2021年2月14日閲覧。
  13. ^ 【蝶野正洋×船木誠勝初対談!】#蝶野チャンネル 新日本プロレス同期の2人。新弟子事件簿/海外武者修行の思い出/UWF移籍の裏側を激白 - YouTube
  14. ^ 新日本プロレス「熊本・旅館破壊事件」の真実#3”. 文春オンライン (2021年7月11日). 2022年10月12日閲覧。
  15. ^ 日刊スポーツ2000年8月1日号
  16. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.134
  17. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.135-136
  18. ^ 破壊王・橋本真也さんは大の車好き! 最も使えない付け人ケンゾーと地下駐車場を爆音周回”. 東京スポーツ. 2021年11月6日閲覧。
  19. ^ 2005年8月20日深夜放送「リングの魂 橋本真也スペシャル」より。追悼番組であるが橋本の人柄に鑑み、明るく楽しく橋本を偲ぶ構成となっていた。
  20. ^ a b 【爆笑】蝶野正洋&船木誠勝が暴露した同期・橋本真也の実態がヤバすぎた件(特選切り抜き) 船木誠勝【公式】 Masakatsu Funaki 2022/08/03 (2023年2月21日閲覧)
  21. ^ 【長州力が緊急事態宣言】蝶野お前に俺の何が分かるんだ!蝶野が長州力Twitterにも追求❕新型コロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言により蝶野正洋35周年イベントは無観客での実施。 【公式】蝶野正洋チャンネル 2022/05/09 (2023年2月21日閲覧)
  22. ^ 橋本真也「最後の女」が結婚サギで逮捕”. 日刊大衆 (2016年4月11日). 2022年7月22日閲覧。
  23. ^ 笑い満載の橋本真也追悼興行 橋本ファミリー、千羽鶴兄弟ら来場=ZERO1-MAX スポーツナビ 2008年(平成20年)7月13日
  24. ^ Frankie Goes To Hollywood『Welcome To The Pleasuredome (Into Battle Mix)』(映画『トイズ』サウンドトラック収録、トレヴァー・ホーンによるリミックス)






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