橋本真也 橋本真也の概要

橋本真也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 03:47 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
橋本 真也
Shinya Hashimoto
プロフィール
リングネーム 橋本 真也
SHOGUN
ハシフ・カーン
本名 橋本 真也
ニックネーム 破壊王
爆殺シューター
ハッスル・キング
闘魂伝承
ミスターIWGP
身長 183cm
体重 135kg
誕生日 (1965-07-03) 1965年7月3日
死亡日 (2005-07-11) 2005年7月11日(40歳没)
出身地 岐阜県土岐市
スポーツ歴 空手
柔道
トレーナー アントニオ猪木
坂口征二
山本小鉄
デビュー 1984年9月1日
引退 2004年9月2日
テンプレートを表示

来歴

新日本プロレス入団

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校、現在の中京高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレスに入門。しかし、入門初日に後のライバルである蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした(その頃はお互い打ち解けていない間柄だったので「僕が先に使っていた」「いや君の前に僕が使っていた」という口調で争っていたと著書に記されている)。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビュー。

1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た[1]カナダカルガリー地区を中心にモンゴルギミックの『ハシフ・カーンHashif Khan)』のリングネームで試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められた時に女性器を描き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている。

1988年暮れのワンマッチ帰国後、1989年(平成元年)1月からはアメリカ合衆国テネシー州メンフィスCWAに参戦[1]トージョー・ヤマモトマネージャーに、サムライ・シンジこと笹崎伸司と『ショーグン&サムライThe Shogun & The Samurai)』のタッグチームを結成、エースのジェリー・ローラービル・ダンディーをはじめ、ブレイク以前のスコット・スタイナージェフ・ジャレットロード・ヒューマンガスらと対戦した[2][3]

闘魂三銃士結成

海外修行の後に帰国し、闘魂三銃士として武藤敬司、蝶野と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名を貰っている[4]。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本は、このニックネームを気に入っていたという。

ビッグバン・ベイダースコット・ノートントニー・ホームといった外国人巨漢レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開していた。橋本は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットパワーボムをほとんど使用せず[5]あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年(平成5年)、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤やG1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったがWAR天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9月20日、ムタを破り第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波に敗れてIWGPヘビー級王座を一度手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲き(1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍が認められ「プロレス大賞MVP」を獲得した。

ミスターIWGPとして君臨

1996年(平成8年)4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGPヘビー級王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利。また、前年から抗争が勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997年(平成9年)8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れ、IWGPヘビー級王座を奪われて以降、橋本がIWGPヘビー級王座につくことはなかったが通算20度の防衛を果たした。

新日本プロレス時代の橋本は後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方でG1 CLIMAXのタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年(平成10年)に藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り、念願のG1 CLIMAX優勝を果たした。

小川直也との抗争

小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年(平成9年)4月の初戦(小川のプロレスデビュー戦)は敗れたが翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年(平成11年)1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後に両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。橋本は試合後の記者会見で「初めにいいの一発もらっちまったが(橋本は小川のパンチで鼻骨を骨折)(小川は)目がイっていた」と小川陣営が興奮剤などを使っていたと匂わせるコメントをした[6]全日本プロレス三沢光晴全日本プロレス中継内で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡は「セメントマッチ」であったと語っている[7]

10月にも小川に敗れ、2000年(平成12年)4月7日東京ドームで行われた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。橋本も小川のSTOをDDTで返すなど一時は追い込んだものの、攻撃面の弱さもあり大敗を喫し、公約どおり新日本に辞表を提出した。

3度目の戦いは結果として社会的注目を浴び、1999年10月に行われた4戦目と「負けたら引退」を公約した5戦目の試合結果はその日の『ニュースステーション』スポーツコーナーでも伝えられた。

新日本プロレス解雇 - プロレスリングZERO-ONE旗揚げ

プロレスリングZERO-ONE時代の橋本真也。

2000年(平成12年)8月23日、橋本は熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明、これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。その結果橋本は11月13日付で新日本を解雇をされたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩・大谷晋二郎高岩竜一が合流した。

2001年(平成13年)3月2日、橋本は両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ、旗揚げの挨拶を行い、試合では新日本の永田裕志と組んでノアの三沢光晴・秋山準組と対戦したがフォール負けした。この後、小川とは和解してZERO-ONEにて共闘し、「OH砲」として人気を得た。

三冠ヘビー級王座奪取、長州力との決戦 - ハッスル・キング

2003年(平成15年)にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて小川と組み武藤・小島聡組と対戦して勝利したが、試合後に川田利明が乱入、そして7月、橋本・小川組VS武藤・川田組の試合で試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで橋本は三冠ベルトを返上した。

11月、長州へ東京スポーツ紙上で口撃を行い、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年(平成16年)2月にはシングルで長州と激突し、勝利した。

2004年(平成16年)2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れた(セコンドからタオル投入)。なお、橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。

2004年(平成16年)からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

プロレスリングZERO-ONE崩壊、闘病 - 最期

同年、団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し負債は全て橋本が自ら被ることで決着がついた。1人でフリーの道を歩むことになる。橋本もその後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年(平成17年)7月11日8時頃、滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送されたが、10時36分に搬送先の病院で死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。

7月16日に行われた橋本の葬儀には武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもあるKBCアナウンサー高島宗一郎の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で火葬された[8]。また旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷は棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名は「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」であった。

テレビ朝日のバラエティ番組『ロンドンハーツ』が、橋本の生涯最後のテレビ番組出演だった(後述のエピソードを参照)。

2006年(平成18年)『力道山』(日韓合同制作)が日本で上映された。橋本は生前、東浪役で出演し、遺作となった[9]

2008年(平成20年)3月2日、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

2011年(平成23年)7月11日、七回忌という節目を機に公式の七回忌追悼オリジナル写真集が発売された。『永遠の破壊王』

2015年(平成27年)7月13日、十回忌という節目で新日本プロレス主催で後楽園ホールで『橋本真也復活祭』を開催、所縁のレスラーが集結した。メインイベントでは息子の橋本大地と永田のシングルマッチが組まれた。

得意技

打撃技

各種キック
スーパーヘビー級のウェイトを乗せて繰り出されるキックは非常に強烈で、「爆殺シューター」との異名を取るほどの威力を誇った。佐藤塾での空手の経験も手伝い、キックは若手時代からの得意技で、レガースを着けないため、さらに威力が増し武藤や蝶野に嫌がられていた。
ミドルキック
橋本が最も多用するキック。相手の胸板へ数発叩き込んで仰け反らせ、タメを作ってさらに強力なキックで相手を吹き飛ばす一連の流れはプロレス的な説得力に溢れている。
ローキック
ミドルと同様に威力が高く、相手の足にダメージを与え試合のペースを握る。アントニオ猪木はそのローキックを受けた衝撃で体ごと1回転してしまい、「相当効いていた」と後に語っている。
フライング・ニールキック (爆殺ニールレッグラリアット)
胴回し回転蹴りの一種。前田日明がUWFスタイルを標榜して使用しなくなったことから、橋本の代名詞の一つとなった技。主に自らロープに飛んで勢いをつけ、相手の首や顔面めがけて繰り出される。初のテレビマッチ(6人タッグ)でも披露したが、パートナーが抱え上げた相手に仕掛けようとしてその頭上を越えてしまったこともある。ハシフ・カーン時代のフィニッシュ技。
水面蹴り
身体を沈み込ませ地を這うように回転しながら相手に脚払いをかける。相手が技を仕掛けてきたのをかわしてカウンターで見舞うことも多く、この技でたびたび形勢を逆転してきた。ボクサートニー・ホームに敗戦した後、リベンジマッチのために習得。中国での修行で会得したと橋本は語っている。この時の様子は闘魂三銃士自叙伝集「烈闘生」に記述がある。
袈裟斬りチョップ
キックに次いで使用頻度の高い技で、相手の胸から肩口にめがけて繰り出され非常に強力。実況ではよく「ナタを振り下ろすような」と形容された。
燕返し
バックハンドブローの要領で繰り出す、横回転式逆水平チョップ。小川直也との2度目の対戦に備えて開発された。
地獄突き
若手時代からのあだ名がブッチャーだったが、それを意識して使っていたかは不明。
ジャンピング・エルボー・ドロップ
雄叫びを上げながら大きくジャンプして繰り出す。コーナー上からうつ伏せに倒れる長州の後頭部に決め3カウントを奪ったこともある。
(一時的な)引退試合となった小川戦でもうつ伏せの状態の小川に決め、衝撃で小川の腕を脱臼させている。
なお、新日本出身の選手はエルボー・ドロップの名手が多いが、対して全日本の選手はスタンド式のエルボースマッシュを得意とする選手が多いのも特筆すべき点。
ダイビング・フット・スタンプ
主にタッグマッチで使用。

組み技

DDT
相手の首を抱え込んで固定し、後方へ倒れこみながら脳天をマットに突き刺す技。橋本の代名詞と言える技である。武藤は橋本のDDTについて「首をガッチリと抱え込まれ最後までロックを外さないので、ダメージが大きい」と語っている。
ジャンピングDDT
首を抱えたまま飛び上がってマットに突き刺す、スピードと落差の大きいDDT。さらに、自らロープに飛んで勢いをつけ、そのまま相手に飛びつきながらDDTに移行することで更なる落差と破壊力を生み出す入り方もある。新日本時代前期の橋本は、この“飛びつき式”をフィニッシュ技として使用していたが、後に垂直落下式DDTを開発してからは使用頻度が減っていった。
リバースDDT
バックを取った状態からDDTを仕掛ける技。通常のDDTとは違い、相手は首を固定されたまま後頭部をマットに叩きつけられることになるため、受け身が取りにくくダメージも大きい。
垂直落下式DDT
ブレーンバスターのような体勢で繰り出すDDT。垂直落下式ブレーンバスターと混同されやすいが、橋本のこの技はゆっくりと持ち上げて頭からリングに叩きつける技でありステップもブレーンバスターではなくDDTのステップである。それは、自然重力落下よりも(ブレーンバスターの中にも、下方に加速を付加するバリエーションもあるが、先のステップも含め)、技をかける側が意図的にマット上(下方)へ加速する着地に近いことでわかる。橋本自身の体重・低重心もあいまって、数あるプロレス技の中でも指折りの強力な技となっている。それを食らう選手、見ている観客に与えるインパクトも大きい。山崎一夫にいたっては危険な角度で頭から落ちていった。
フィッシャーマンDDT
垂直落下式のフィッシャーマン・バスター。同時期に獣神サンダー・ライガーが、フィッシャーマン・バスターを使用し始めたためか、橋本は使用しなくなった幻の技といえる。

関節技

橋本には代名詞といえる関節技がほとんどないが、マサ斎藤は「橋本は関節技も上手い」と評しており、十字固めやアキレス腱固めなど一般的な関節技をほぼマスターしていた。

三角絞め
相手の肩と首を両脚で挟み込んで絞め上げる技、縦三角絞め。橋本の場合は技の入り方がやや独特である。UWFインターとの対抗戦でよく使われた技。
肩固め
柔道技の応用。
腹固め
うつ伏せになった相手の背中に乗り両脚で腕を極める技。柔道の腕挫脚固。相手がタックルに来た時にそれを切って繰り出していた。橋本のグラウンドテクニックがよくわかる技である。主に試合序盤に出していたが、スコット・ノートンとのIWGP戦でこの技でキブアップを奪ったこともある(当時は逆肩固めと表記された)。
裏十字固め
腕ひしぎ逆十字固めの逆バージョン(かけられている側がうつぶせ)。1994年、G1クライマックス・スペシャルのタイトルマッチ(IWGPヘビー級)においてヒール転向してまもない挑戦者・蝶野からギブアップを奪い王座防衛に成功。

合体技

オレごと刈れ
小川との合体技。橋本が後ろから相手をつかんでジャーマン・スープレックス、あるいはバックドロップを仕掛けると同時に小川が橋本ごとSTOを仕掛けるも、橋本自身にもダメージを与える『両刃の剣』である。初めて披露された際の、橋本が小川を呼び込む叫びがそのまま技の名前として定着した。
刈龍怒(かりゅうど)
小川との合体技。橋本が水面蹴り、小川がSTOを仕掛ける。2人の得意技を使った強力な技。



  1. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P147(1996年、日本スポーツ出版社
  2. ^ Memphis Wrestling History 1989”. Memphis Wrestling History. 2010年8月23日閲覧。
  3. ^ The History of Wrestling at the Mid-South Coliseum”. Pro Wrestling History.com. 2010年8月23日閲覧。
  4. ^ いきなり!フライデーナイト藤波辰巳がゲストで出演した際に当時「戦う渡辺徹」と呼ばれていた若手時代の橋本が同行しており、渡辺と橋本の2ショット写真が撮られ、それがプロレス雑誌に記載された。ちなみに、当時は橋本より、渡辺の方が肥満体の巨漢だった
  5. ^ 同期でライバルの武藤や蝶野にも似た傾向が見られる[要出典]
  6. ^ 橋本真也 vs 小川直也 THE 死闘 VHS版
  7. ^ 佐山聡が明かす橋本vs小川、セメントマッチの真実 スポーツナビ、2008年(平成20年)1月11日
  8. ^ 体格ゆえ、棺には蓋ができず、代わりに中京商業高校柔道部の旗が被せられた。
  9. ^ 韓国では2004年上映
  10. ^ 金澤克彦によると、次の日学校にウィリーが入場時に頭に巻いていたバンダナを真似して登校したところ、タイガー・ジェット・シンが頭に巻いているターバンと勘違いされたらしい
  11. ^ 小川は猪木から「橋本を殺せ」とのメッセージを受けていたという
  12. ^ DSE側のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用で来日したケアーに、橋本が許可無く会って、ZERO-ONE参戦の交渉をした」というもの
  13. ^ 日刊スポーツ2000年8月1日号
  14. ^ 当時レフェリー兼マッチメイク担当(レスラーの対戦予定などを決める)で、橋本を干した本人だったミスター高橋によれば、橋本は大先輩の星野勘太郎に相談し二人で詫びを入れに来たという
  15. ^ これが橋本と長州の確執の発端となった
  16. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.134
  17. ^ 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 p.135-136
  18. ^ 冬木の復帰試合を橋本が企画した事もあり交際発覚から死去までの間「彼の交際は仁義にもとる」と存在そのものがタブーとして業界から完全に干され、リハビリや死去までの記録は残っていない。
  19. ^ 笑い満載の橋本真也追悼興行 橋本ファミリー、千羽鶴兄弟ら来場=ZERO1-MAX スポーツナビ 2008年(平成20年)7月13日
  20. ^ 2005年8月20日深夜放送「リングの魂 橋本真也スペシャル」より。追悼番組であるが橋本の人柄に鑑み、明るく楽しく橋本を偲ぶ構成となっていた。
  21. ^ Frankie Goes To Hollywood『Welcome To The Pleasuredome (Into Battle Mix)』(映画『トイズ』サウンドトラック収録、トレヴァー・ホーンによるリミックス)


「橋本真也」の続きの解説一覧



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「橋本真也」の関連用語

橋本真也のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



橋本真也のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの橋本真也 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2020 Weblio RSS