新田神社 (薩摩川内市) 祭神

新田神社 (薩摩川内市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 05:41 UTC 版)

祭神

江戸時代までは応神天皇神功皇后武内宿禰八幡三神を祀っていた。

歴史

社伝によると「鹿児島県加世田市(現南さつま市)から川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いてお住まいになった。川内(センダイ)の名は、この千台→川内から来ているとされる。やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の可愛山陵で、そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である。なお当神社の“新田”という名称には、ニニギノミコトが川内の地に川内川から水を引いて新しく田圃をお作りになったという意味が込められているとされる。

ただ新田神社のことを書いた最も古い史料は、永万元年(1165年)の新田神社文書所収の寺家政所下文案のもので、これには「当宮自再興経三百余歳云々」とあり、永万元年から300年前といえば清和天皇貞観7年(865年)となるので、貞観の頃に再興された事は明らかである。

この他に当神社の創建年代に関する記録のある史料としては、「聖武天皇神亀2年(725年)創立」とする三国神社伝記(1808年)や、「陽成天皇元慶6年(882年)薩州新田宮建立」とする三国名勝図会1843年)などがある。

また当神社がかつて八幡新田宮(新田八幡宮ともいう)と呼ばれた由縁で通説とされるものに「承平天慶の乱平将門藤原純友の乱)のときに国家鎮護を祈願し、九州の5ヶ所に石清水八幡宮から勧請された八幡五所別宮の一つに列したため」というものがあり、これについては新田宮所司神官等解文(1247年)、肥後藤崎八旛宮社祠神官等解文(1357年)などの史料で証されるが、この承平年間(931-938年)の八幡神勧請八幡五所別宮)による八幡新田宮(新田八幡宮)の由縁から、それ以前の平安前期(794〜930年頃)には、既に新田神社(新田宮)が当地にあったことは間違いない。

また神代三陵異考(1875年)には「新田宮は、はじめ今の地から東7・8町(約800m)の川内川の向かいにある隈之城郷宮里村に鎮座されていたので、地名を宮里とよんだ」とある。これは笠沙崎から当地に移られたニニギノミコトが最初に宮居したのが川内川左岸・宮里の地で、その宮跡に創建されたのが当神社であるとするものである。このニニギノミコトの宮居はその後、都八幡→宮ヶ原→地頭館址→屋形ヶ原と移されていき、最終的に神亀山に移されたとの伝承がある。

また一説によれば、「ニニギノミコトを主神とする新田宮が現在地(神亀山)にあり、別に石清水八幡宮祠官紀氏の勧請した応神天皇を主神とする八幡宮が隈之城郷宮里村にあったものを、新田宮の東部に近接する薩摩国府が新田宮を主社とすべく両社を合祀して大きくし、八幡新田宮としたものであろう」ともいう。これからすると、宮里にあったのは八幡宮で、新田宮はそれとは別に神亀山にあったということになる。

かつてこの宮里にあった若宮八幡の跡がニニギノミコトの宮居の地であるという伝承があり、この若宮八幡は同じ宮里にある志奈尾神社に合祀されたという。この志奈尾神社は、日本三代実録に「貞観2年3月20日薩摩國従五位志奈毛神に授五位上」との記載がある国史見在社であるが、由緒に明治43年7月に無格社若宮神社を合祀とあるのでこの若宮神社が若宮八幡のことであると思われる。この志奈尾神社の伝えに「新田神が姉神で、志奈尾神が妹神ともいわれる」というものがある。新田神社と志奈尾神社の由緒などからは、この両社が姉妹の神であるという謂れのようなものについては特に見い出せないが、関連性があると思われるのが宮里の地はニニギノミコトが最初に宮居された地であり、新田宮は宮里のニニギノミコトの宮居の跡地に創建された、あるいは新田宮と宮里の八幡宮が合祀して八幡新田宮となったなどの、新田宮と宮里の地の関わりについての伝承があるが、これらがこの両社を姉妹の神とする伝承の基になったものであるかは判然としない。

(新田神社の祭神の天照大御神と志奈尾神社の祭神の志奈都比古神志奈都比売神のうち男神の志奈都比古神の両親がイザナギイザナミであり、女神の志奈都比売神は志奈都比古神と男女一対の神と見られるし、志奈都比古神の別名とされる級長戸辺命(シナトベノミコト)は、女神とされることもあるようで、神社によっては志奈都比古神の姉または妻とされ、また志奈都比売神とされることもあるようなので、これらが両社を姉妹の神とする謂れの一つになっていると見ることも或いは出来るのかもしれない。)

現在、当神社は神亀山の頂上にあるが、薩隅日地理纂考(1871年)には、「山上には、はじめ山陵だけがあって宮殿はなかった」とあり、これは古くからの神奈備山信仰に類するもので、山頂にある聖地(山陵か)を麓(里宮)から遥拝していたのが当社の始まりであったことを示唆しており、その旧社地は神亀山中腹にある平地だったといわれており、今も当時の社殿の礎石が残っているという。この旧社地の神亀山中腹から山頂に遷座した経緯は、高倉天皇承安3年(1173年)に失火により中腹にあった社殿が焼失したため、安元2年(1176年)朝廷の宣旨により今の山頂に遷座したという。

新田神社は『延喜式』にその名前が見えないことから、当初の地位はかなり低いものだったという見方もあるが、同じように『延喜式』にその名前が見えない神社に、福岡県福岡市東区香椎にある旧官幣大社香椎宮がある。香椎宮は、神託によって香椎に大廟を造成したのが始まりで、廟とあるように、中国の死者の霊を祀る廟を模して創始されたので、古代には神社ではなく霊廟に位置づけられていたため『延喜式』にはその名前が見えない。だが、『延喜式』民部省の巻をみると、香椎宮の前身の橿日廟宮は、天皇陵と同じ待遇を得ていたことがわかる。

新田神社が鎮座する神亀山にはもともと山陵可愛山陵)だけがあって神社はなかったが、後の時代になってからその御霊を祀る社殿が建立されたものの、あくまでここは山陵としての位置づけで認識されていたため、たとえ祭神の山陵に鎮座してその御霊を祀る社であったとしても、主体である山陵の付随的なものであった新田神社(新田宮)は、一般の神社と同じようには認識されていなかったと思われるので『延喜式』に記されることはなかったと思われる。

そもそも新田神社のように陵墓にある神社は、そこに神社が建てられたとしても一般にはそれほど大きいものではなく、陵墓としての位置づけの方が圧倒的に大きいため、『延喜式』の対象とはならなかったと思われる。この新田神社と同じような例と思われるのが大阪府羽曳野市誉田御廟山古墳応神天皇)の直ぐ南に鎮座する誉田八幡宮である。この神社は社伝によると、欽明天皇20年(559年)に欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としており、宇佐八幡神が顕現したのが欽明天皇32年(571年)とされていることから、それよりも早く最古の八幡宮と称している。旧社格府社で、天皇により創建された神社であり、最古の八幡宮とも称され、当神社の主祭神で八幡神とされる応神天皇の陵墓に鎮座するという、まさしく八幡宮の根本社ともいえるような神社であると思われるが、やはり全国第2位の規模を誇る巨大古墳である誉田御廟山古墳応神天皇)の天皇陵としての存在感があまりにも強大なためか、そんな天皇陵に付随的な位置づけにある誉田八幡宮は、前述のような由緒を持つ神社であるにもかかわらず『延喜式』にはその名前は見えない。あるいは、応神天皇陵前に神廟が設置されたことが始まりとなっているので、香椎宮と同じように神社ではなく霊廟に位置づけられていた可能性もある。

文治年間(1185年-1190年)、新田神社筆頭職の執印職に守護島津氏と祖を同じとする鹿児島郡司の惟宗康友が就き、康友の子孫が執印氏を名乗り(元弘3年(1333年)に後醍醐天皇が新田宮執印職の当知行を安堵)明治に至るまで、代々俗体で世襲することになる。

蒙古襲来(元寇)で、鎌倉幕府は各国の一宮と国分寺に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国の守護に一宮への剣、神馬の奉納を命じた。薩摩国では枚聞神社と新田神社の間で一宮相論が起こっていたため、島津氏(忠宗)は、一宮の決定とは無関係としながらも 剣、神馬を新田神社(同族の執印氏側)に奉納する。これは事実上一宮は新田神社と認める行為で、一宮相論は決着し、古来から一宮であった枚聞神社から新田神社へと一宮が移ることになるが、最終決定がされておらず、薩摩国に一宮が2つ存在することになる。また、国分寺留守職、天満宮別当職に執印氏の分流の国分氏が就き、新田神社は薩摩国国分寺とも深い繋がりを持つ事になる。武神である八幡神を祀っていたことから、当地を支配していた島津氏に尊崇を受け、暦応4年(1341年)年記のある『島津家文書』に依ればこの新田神社が「薩摩国一宮」として挙げられている。しかし現代においては執印氏の強引な手法も詳らかとなり、古来から一宮とされてきた枚聞神社が正しく薩摩国一宮であるとの意見も多く散見される。

近代社格制度においては、当初無格社であったが明治18年(1885年)に枚聞神社より上の国幣中社に列した。しかしながら現在は枚聞神社と同じ神社本庁の別表神社にあたる。

山陵

明治7年(1874年)7月10日、明治天皇の裁可を経て可愛山陵(えのやまのみささぎ)が「邇邇芸尊陵」の指定を受け、大正3年(1914年)に宮内省直轄となった。新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理している。陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。

大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年(1962年明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。


  1. ^ 『神道大辞典』(臨川書店)
  2. ^ 新田神社本殿 拝殿 舞殿 勅使殿 両脇摂社”. 鹿児島県教育委員会. 2013年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月13日閲覧。





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