御三卿 沿革

御三卿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/17 09:02 UTC 版)

沿革

御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、この時は御両典甲府家館林家)の例に倣い[1]、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ[2]。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った[2][注 1]。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際、一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。

御三卿は江戸時代を通して将軍家の身内として扱われたが、1868年明治元年)5月、田安・一橋両家が独立した藩として新政府より認められた(維新立藩[3][注 2]1884年(明治17年)の華族令により、3家はそれぞれ伯爵叙爵した[注 3]

「御三卿」の呼び名の由来は、当主が公卿である従三位に昇ることからとする説と[4]八省長官)に任ぜられる例であったためとする説がある[注 4]

位置付け

御三卿の創設理由については、徳川吉宗が、将軍家御三家の血縁関係が当時すでに薄くなっていたことを鑑みて、自身の血筋をもって将軍家を継続させていくために定めた[5]、あるいは御三家の勢力を抑えるために興したとする解釈が従来行われてきた[2]。しかし、御三卿は屋敷・賄料(経費)・家臣のいずれをも幕府から与えられており、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍家の身内にとどまるものだった[3][5][6]徳川慶喜に一橋家時代から仕えた渋沢栄一が「三卿の家は起立の初には、必ずしも其主を常置すべきものとは定まらず、唯将軍家の子弟の養はるべき家なき間、据ゑ置かるべき設なるが如し」と説くように[7]、御三卿は、適当な養家となる大名家が現れるまでの間、将軍の庶子を待機させておく仕組みとして始まり、将軍家の「部屋住み」というのが実態であったとみなせ[3][6]、御三卿を大名のうちに数えない解釈もある[8]

そのため、御三卿には子による家督相続で家を永続させるという前提がなく[3][5]、当主(屋敷の主)本人やその嫡子が養子となって御三家や越前家を相続した例がある[9]。また、当主の死去および養家への転出によって跡継ぎが存在しない事態が発生しても、その屋敷や領地、家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」(あけやしき)の措置がとられ[1][2][注 5]、将軍に新たな庶子が生まれた場合、明屋敷の家を相続させた[12][注 6]

幕末期には、御三家の庶子や隠居した当主が御三卿を相続するなど、当初の性格が変化する部分もあったが[1]、田安家から越前家に入った松平春嶽が著書『幕儀参考』において「三卿ハ、タトエハ将軍ノ庶子ヲシテ本丸ニ置クヘキヲ、第ヲ賜ヒテ他ニ住セシム、ユヱニ、将軍ノ厄介ト見倣シテ可ナリト云フヘシ」と記し[2][14][注 7]、水戸家から一橋家に入った徳川慶喜も安政の大獄で隠居謹慎を命じられた際に「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたように[16]、御三卿出身者が自らを部屋住みと認識していたことがうかがえる。

格式・待遇

御三卿の格式尾張家紀州家に準じるものとされた[2]元服すると従三位に叙され、八省の卿もしくは右衛門督の官職と権中将を兼任し[1]、家督相続後は参議となり、長寿に達すると権中納言従二位権大納言へ昇進した[1][2][17][注 8]。当主と嫡子は徳川の苗字本姓源氏)の使用を許され(ただし庶子は「松平」を用いる)[1]、参議に任じると田安・一橋・清水を号した[2][注 9]。なお、幕府儀礼における御三卿の席次は、御三家の当主とその嫡子の間に置かれたが、御三家の家格が尾張・紀州・水戸の順に固定していたのと異なり、御三卿はその時々に任官した順番が席の高低に反映された[1][18]。他に、御三卿の正室に対する尊称としては御三家正室と同じく「御簾中」が用いられた。

また、御三家以下の諸大名が江戸城への登城時には大手門から入城し、表御殿の各詰所に控えた一方で、御三卿は平川門から登城して本丸御殿中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、中奥の御控所(おひかえじょ)に入るという相違もあった[2][12][19]。将軍の生活空間である中奥に御三卿の詰所があったのは、将軍の最近親者としての御三卿に対する特別礼遇であった[2][19][20]


注釈

  1. ^ 「御両卿」の呼び名はその後、御三卿のいずれかに当主がない(明屋敷)場合に用いられた[2]
  2. ^ a b c 清水家は当主昭武が1868年12月(明治元年11月)まで日本を出国していた上、帰国以前に水戸家の相続が決まっていたため(正式な相続は帰国の翌年)当主不在となり、立藩することはなかった。
  3. ^ 清水家は1899年(明治32年)、当主の篤守が負債問題のため爵位を返上。1928年昭和3年)に篤守の子の好敏が、航空分野での功績から男爵に叙されている。
  4. ^ ただし官職については、一橋家が刑部卿もしくは民部卿を、清水家が宮内卿もしくは式部卿を名乗ったのに対し、田安家では2代治察大蔵卿に任じた以外は右衛門督を称している[3]。喜田貞吉は、御三卿の「卿」は公卿の地位を有することに由来するもので、八省の卿由来説は誤りとしている[4]
  5. ^ 明屋敷は、田安家では1度(2代治察死去から3代斉匡が当主となるまでの14年)、一橋家では1度(9代慶喜が安政の大獄で隠居謹慎を命じられてから1862年(文久2年)に再相続するまで)[10]、清水家では4度起きた。特に清水家では将軍の庶子や庶弟をその当主に立てることが繰り返され、1924年(大正13年)に篤守の子の好敏が相続するまで実子による相続は皆無であった。また、清水家は初代重好の死後に領地や家臣団が幕府に編入されたほか[1]1857年安政4年)には講武所拡張のために当時明屋敷だった清水家の改易計画が出されている(田安家の反対により中止)[11]
  6. ^ 松平春嶽も『幕儀参考』にて「尾・紀・水ノ三家ト違ヒ、其戸主死亡ニ至レハ、別ニ養子ヲ以テ相続スルコトナシ。幕府将軍家ニ庶子アレハ、其庶子ヲ以テ嗣カシム」と[13]、御三卿の家督相続について触れている[2]。なお、実際は田安・一橋両家の間で子弟を相互に入れているが、これについて同じ田安家出身の松平定信は養子であるととらえる一方、春嶽は『幕儀参考』で述べたように養子とはみなしていない[2]
  7. ^ 「厄介」は身内を意味し[15]、すなわち部屋住みのこと。
  8. ^ 特に第11代将軍家斉の実父である一橋家2代治済は生前従一位准大臣にまで昇り、没後太政大臣を追贈された。
  9. ^ それぞれの屋敷地が所在する、江戸城内の最も近い城門の名称に由来する[2]
  10. ^ 賄料が10万石となる前は、合力米3万俵が御両卿の宗武と宗尹へ与えられていた[10]
  11. ^ 三殿八役は、御三卿家中における家老・番頭・用人・旗奉行・長柄奉行・物頭・郡奉行・勘定奉行の総称[22]。ただし実際は、御付切や御抱入の者も八役に就き[2]、御付人であっても八役以外を務めるなど[21]、区分による家臣の人事は厳密でなかった。
  12. ^ 幕末には状況が変わり、一橋家時代の徳川慶喜は幕政に名実ともに深く関わることになると、家臣と共に幕政や家領の経営に当たり、また直属の兵力の必要から領国で農兵の徴募を行った。募兵に働いた渋沢栄一や渋沢成一郎は幕臣からの出向でなく、新規に領外の豪農から士分に取り立てられて一橋家中に御抱入として加わり、慶喜の将軍就任後は将軍直臣(旗本)に転じた。また、徳川昭武は領国経営にこそ関わらなかったものの、清水家時代のほぼ全期をヨーロッパで過ごしており、幕府の遣欧使節団の代表を務めた後に留学生活を送っている。その他の当主も、幼少で家督を継いだ田安家の寿千代や亀之助(徳川家達)以外は幕政に多少なりとも関わっている。
  13. ^ 徳川秀忠―千姫勝姫池田綱政政純―静子―一条溢子―徳川治紀

出典






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