安徳天皇 安徳天皇の概要

安徳天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 09:38 UTC 版)

安徳天皇
安徳天皇画像 泉涌寺所蔵

即位礼 1180年5月18日(治承4年4月22日
大嘗祭 1182年12月21日(寿永元年11月24日
元号 治承
養和
寿永
元暦
時代 平安時代
先代 高倉天皇
次代 後鳥羽天皇

誕生 1178年12月22日
崩御 1185年4月25日寿永4年3月24日
壇ノ浦(現在の山口県下関市壇ノ浦)
陵所 阿彌陀寺陵(赤間神宮境内)
漢風諡号 安徳天皇
言仁
別称 水天皇大神
父親 高倉天皇
母親 平徳子
皇居 平安宮福原宮
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高倉天皇の第一皇子[3]。母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)[4][5]

略歴

吾妻鏡』(吉川本)頼朝将軍記の首書。安徳天皇の即位が記されている。

治承2年(1178年)11月12日に生まれ、生後まもない12月15日に立太子。治承4年(1180年2月21日数え年3歳(満1歳2か月)で践祚し、4月22日に即位する。幼帝の政治の補佐は外祖父たる平清盛が取り仕切った[2][6]。即位前には、天皇の祖父後白河法皇も、清盛により幽閉されるに至った[2]。摂政には藤原基通が任じられた[2]

即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した[2]大嘗祭の為の大嘗宮は紫宸殿の前庭に建てられた[7]寿永2年(1183年)、源義仲の入京に伴い、平宗盛以下平家一門に連れられ三種の神器とともに都落ちする[2][8]。この後寿永2年8月20日1183年9月8日)に三種の神器が無いまま後鳥羽天皇が践祚し[9]、元暦元年(1184年)7月28日に即位[10]。正史上初めて同時に2人の天皇が擁立されることになった[11][12]。このため、以降2年間、二人の天皇が並立する事態となっている。

一方、安徳天皇は平家一門に連れられ大宰府を経て屋島に行き、御所も造られた。昭和11年刊行の『史蹟名勝天然記念物調査報告』ではその場所を「屋島山東麓壇の浦の安徳天皇祠[注釈 3]及び其の附近なるべし」としている[13]。また、御所が造営されるまでは対岸の牟礼に今も現存する六萬寺を仮御所にしたとも伝わる。現在、六萬寺には「高松平家物語歴史館」の閉館に伴い奉納された安徳天皇、二位尼殿の等身大蝋人形が展示されている[14]。結局、安徳天皇と女官たちはこの地に2年弱滞在した。

しかし、源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍(源範頼源義経)によって、平家は一ノ谷の戦い屋島の戦いに敗北[2]。特に屋島合戦(1185年2月)の敗北により、天皇と平家一門は海上へ逃れる[15]。そして寿永4年(1185年)4月、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平家と源氏が激突[2]。平家軍は敗北し、一門は滅亡に至る[2]。この際に安徳天皇は入水し、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)で崩御した。母の建礼門院(平徳子)も入水するが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられている。この際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保した[3][5]

平家物語』「先帝身投」の描写では[16]、最期を覚悟して神璽宝剣を身につけた母方祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇は、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。『吾妻鏡』では安徳天皇を抱いて入水したのは按察使局伊勢とされている[17][18]

神器の宝剣はこの時失われたとする説がある(宝剣に関しては異説も多くあり、それらについては「天叢雲剣」の項目を参照のこと)。原型か形代かは別にして、朝廷側が宝剣の回収に失敗したのは確定している[19]。その後、後鳥羽~土御門天皇順徳天皇時に伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣とした[11][20]

諡号

文治元年(1185年)7月3日、九条兼実の発議により、諡号を贈ることが決まった[21]。文治3年(1187年)4月23日[21]、「安徳帝」と漢風諡号が贈られた[2][3]。平安中期から天皇号は贈られず、院号が用いられていたが、安徳のみには天皇号が贈られている。


  1. ^ 弘文天皇(大友皇子)も壬申の乱で落命しているが、明治時代に追号されるまで歴代天皇に数えられず実際に即位したかどうか不明であり、即位が明確な天皇としては安徳天皇のみが該当する。
  2. ^ 八十一安德。三年。 諱トキ仁。治承四年二月廿一日受禪。。同二年十二月日立坊。高倉院長子。母中宮徳子。入道太政大臣清盛女。 攝政基通。内大臣平宗盛。 養和一年。元年辛丑。七月十四日改元。壽永二年。元年。壬寅五月廿七日改元。此時遷都ノ事有ケリ。委在別帖。此天皇ハコノ壽永二年七月廿五日ニ、外祖ノ清盛入道殿反逆ノ後。外舅内大臣宗盛。源氏ノ武士東國北陸等攻上リシカバ。城ヲ落テ西國ヘ具シマイラセテ後。終ニ元暦二年三月廿四日ニ。長門國文字ノ關壇ノ浦ニテ。海ニ入テ失サセ給ヒンケリ。七歳。寶劒ハ沈ミテ失ヌ。神璽ハ筥浮テ返リマイリヌ。又内侍所ハ時忠取テ参リニケリ。此不思議ドモ細在別帖。』
  3. ^ 香川県高松市屋島東町にある安徳天皇社。『史蹟名勝天然記念物調査報告』によれば、古くは壇の浦神社とも言ったという。
  4. ^ 仲恭天皇は4歳で即位し、間もなく廃位されたため在位時には后妃が存在しない。
  5. ^ 『(略)之より尾根傳ひにて二ノ森、三ノ森ヲ經て絶頂に達する、絶頂は平家の馬場と稱され長さ五町ばかりの大草原をなし小笹が密生し周圍には五葉松、白花米ツツジ等の高山植物がある、又傍に安徳天皇の御劒を納めたと傳へられる寶藏石(石灰岩)がある、山上は雲霧の去來するのが常であるが天氣晴朗なれば廣潤なる眺望を恣にする事が出來る、殊に阿讃山脈を越えて瀬戸内海一帯の島山が望見せられるのは最も興味がある 頂上より西北へ五町を下れば大劒神社がある大劒は美くしい石灰岩の突起で谷に面しては高き斷崖をなしてゐる、此處より山腹を斜行すること五、六町で道は二分し木ノ鳥居と狛犬とが置かれてゐる、是より北に下れば見殘に達する、東へ進む事數町で石灰岩の大斷崖下に古劒神社があり更に一町にして兩劒神社がある(以下略)』
  6. ^ 『△信仰の劒山 劍山の信仰は諸國の名山と同じく山岳崇拝に始つたものと思はれるが、安徳天皇が御劍を此山に納めたので、元は太郎山と言ふたのをそれより劒山と改めたと言はれる、劒山に祀れる神佛は富士ノ池では郷社劍神社(劒山本宮)と龍光寺富士ノ池本坊(劍山大權現)とがあり、見殘には郷社劍神社の前堂と圓福寺とがあり劍神社には山上にあり通稱大劍神社と言はれる、劍山本宮は素戔男命及び安徳天皇を祀り末社は古劍神社以下山中の要所々々に祀られてゐる、社殿は敢えて宏壮ではないが享保の頃藩主蜂須賀綱都矩公の造營せられたもので二〇〇年を經たる古建築である(以下略)』
  7. ^ 『千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度(ふたヽび)人間に返らざるも理(ことわり)とこそ覺えけれ。』
  8. ^ 『其後此主上ヲバ安徳天皇トツケ申タリ。海ニ沈マセ給ヒヌルコトハ。コノ王ヲ平相國祈リ出シマイラスル事ハ。安藝ノ嚴島ノ明神ノ利生也。コノ嚴島ト云フハ龍王ノムスメ也ト申傳ヘタリ。コノ御神ノ心ザシフカキニコタヘテ我身ノコノ王ト成テムマレタリケル也。サテハテニハ海ヘ歸リヌル也トゾコノ子細シリタル人ハ申ケル。コノ事ハ誠ナラント覺ユ。』
  9. ^ 『知盛|今、賎しき御身の上、人間の憂き艱難、目前に六道の苦しみを受け給ふ。これと云ふも、父、清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひふらし、權威をもつて御位につて、天道を欺き申せし其の惡逆。積り積りて、一門我が子の身に報ひしか』
  1. ^ 安徳天皇』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j k 歴代天皇総覧200-202頁『第八十一代 安徳天皇 一一七八~一一八五(在位一一八〇~一一八五)』
  3. ^ a b c d 名前で読む天皇歴史207-208頁『八一代安徳天皇【あんとくてんのう】在位 治承四(一一八〇)-承永四(一一八五)年』
  4. ^ 【夫婦の日本史(44)】高倉天皇と建礼門院徳子(1/2ページ)”. 産経ニュース (2014年2月5日). 2020年10月7日閲覧。
  5. ^ a b 国史大系14巻コマ209(原本402頁)〔安徳―後鳥羽〕[注釈 2]
  6. ^ 奪われた三種神器18-22頁『平氏の栄光と没落』
  7. ^ 「神社のいろは用語集、祭祀編」監修・神社本庁、扶桑社 p. 266 ISBN 9784594071936
  8. ^ 奪われた三種神器22-24頁『都落ちする平氏―神器の行方』
  9. ^ 奪われた三種神器31-32頁『「如在之儀」と「太上法皇詔書」』
  10. ^ 伊勢神宮と三種神器281頁『神器なきままの新帝即位』
  11. ^ a b 稲田、三種神器198頁『宝剣の補充』
  12. ^ 歴代天皇総覧205-206頁『第八十二代 後鳥羽天皇 一一八〇~一二三九(在位一一八三~一一九八)』
  13. ^ 香川県史蹟名勝天然記念物調査会 編『史蹟名勝天然記念物調査報告』 7巻、香川県、1936年3月、5-16頁。 
  14. ^ 安徳天皇御行在所 六萬寺”. 2022年4月16日閲覧。
  15. ^ 奪われた三種神器34-37頁『安徳天皇入水―宝剣喪失』
  16. ^ 伊勢神宮と三種神器278-279頁『神璽神鏡の京都帰還』
  17. ^ 稲田、三種神器193-194頁『海に消える宝剣』
  18. ^ 伊勢神宮と三種神器280頁〔『吾妻鏡』の記事〕
  19. ^ 奪われた三種神器37-38頁『「国家的プロジェクト」としての宝剣探索』
  20. ^ 奪われた三種神器40-42頁『宝剣代の創出』
  21. ^ a b 森鴎外 1919, p. 188.
  22. ^ 『美馬郡誌』
  23. ^ 徳山新名勝案内コマ102(原本190-191頁)[注釈 5]
  24. ^ 徳山新名勝案内コマ103(原本192-193頁)[注釈 6]
  25. ^ 『硫黄島大権現御本縁』
  26. ^ 鈴木彰「硫黄島の安徳天皇伝承と薩摩藩・島津斉興-文政十年の「宝鏡」召し上げをめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P85-113
  27. ^ 奪われた三種神器43-45頁『神器不帯というコンプレックス』
  28. ^ a b c d 稲田、三種神器196-197頁
  29. ^ #宝文舘、平家コマ307-308(原本457-458頁)[注釈 7]
  30. ^ #永井、太平記コマ69-70(原本127-128頁)
  31. ^ 早稲田、太平記上コマ239-240(原本443-444頁)
  32. ^ 国史大系14巻コマ274(原本532-533頁)〔安徳―後鳥羽〕[注釈 8]
  33. ^ 伊勢神宮と三種神器281-282頁〔『愚管抄』の見解〕
  34. ^ 渡辺1990:82-122ページ参照
  35. ^ #日本戯曲名作大系1巻コマ74(原本34頁)〔渡海屋の場、大物浦の場〕より[注釈 9]
  36. ^ 『平家物語』「六道之沙汰」


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