安彦良和の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:10 UTC 版)
『機動戦士ガンダム』でキャラクターデザイン、アニメーションディレクター、および作画監督を務めた安彦良和は当時、ニュータイプという概念は「世代論」であるとし、富野に対して「それ以上なら賛成できない」と語っている。ただ、富野由悠季も『月刊ニュータイプ』創刊号(角川書店・1985)のインタビューで、「結局ニュータイプは世代論でしかないわけです」とほぼ同じ意味の発言をしている。安彦はまた、人間同士や国同士は解り合えないことが当然であり、あらぬ期待を抱くことが反感や絶望に繋がるとし、「ニュータイプ」は願望を究極的な夢として表現した幻想でしかないからこそ、劇中でアムロ・レイとララァ・スンは悲劇的な結末を迎えるのであるとしている。 安彦は富野のニュータイプ観を「マルクス主義の形を変えた反復」として苦言を呈している。安彦は『機動戦士ガンダム』制作当時から富野のニュータイプ観には強い違和感を感じていたとし、自身が『機動戦士Ζガンダム』以降のガンダムシリーズをはじめとする富野の仕事と距離を置くようになったのも、富野とのニュータイプ観の相違をきっかけに、これから先の富野の思想とは反りが合わないと感じたことが理由であったと述懐している。 額に一瞬のパルスが走り、瞬時に敵を倒すエスパー的な描写は、光瀬龍が指摘するように「古すぎる」ものであると認識し、ラストシーンで総てのキャラクターが意識の交感をするくだりをもって、若い世代は総てニュータイプの萌芽を胸に秘め、「百年戦争」のような暗澹たる未来へ終止符を打つ者たち、と定義している[要出典]。ただし、これは、「今はもうそれぞれのガンダム」と言い切った安彦の私観である[要出典]。
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