大溝藩 大溝藩の概要

大溝藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 18:35 UTC 版)

歴史

大津
水口
矢島
小川
大溝
関連地図(滋賀県)[注釈 1]

前史

大溝

大溝は高島平野南端の琵琶湖岸に位置し、湖上交通と陸上交通(西近江路)の要衝の地とされる[2]戦国時代の終わり、織田信長の甥で高島郡の支配に当たった津田信澄大溝城を築き、城下や街道、大溝湊を整備した[2][3]。信澄が行った町割りは、のちの大溝城下町の基盤となっている[4]。天正10年(1582年)に信澄が殺害されて以降、大溝の領主は頻繁に交替した[3]。慶長8年(1603年)には甲賀郡水口城建設のために大溝城の資材が転用された[3]

分部氏

分部氏伊勢国安濃郡分部村(現在の三重県津市分部)を発祥地とする一族で、伊勢北部の有力国衆であった長野氏に仕えていた。分部光嘉は長野家を継いだ織田信包(織田信長の弟)に仕え、伊勢上野城(現在の津市河芸町上野)の城主として豊臣政権のもとで独立した大名の地位を確立した。光嘉は関ヶ原の戦いに際して東軍に味方し、安濃津城の籠城戦で奮戦したことにより、戦後に加増を受けて伊勢上野藩2万石の近世大名となった[5]。光嘉の跡は養子の分部光信(光嘉の外孫)が継ぎ、大坂の陣において武功を立てている[6]

江戸時代前期

初代藩主・分部光信

元和5年8月27日1619年10月4日)、分部光信(光嘉の養子)は伊勢国内2万石の領地を近江国高島郡・野洲郡内に移され、大溝を居所とした。これにより大溝藩が立藩した。分部家の近江への移封を「大坂の陣の恩賞」[5]とする説明もあるが、紀州藩の成立により伊勢国内の領地が再編された余波ともされる[注釈 2][7][8]

光信は、大溝城跡の一角に大溝陣屋を築いて藩政の拠点とするとともに、津田信澄が整備した城下町の町割りをもととして近世的城下町を整備した[4]#陣屋と陣屋町参照)。また、大溝湊を拡張した[2]

寛永20年(1643年)に光信が死去して子の分部嘉治が跡を継いだが、明暦4年(1658年)に妻(備中松山藩池田長常の娘)の叔父に当たる池田長重と刃傷沙汰となり死亡するという事件が発生する。子の分部嘉高が幼少で家督を継いだが、寛文2年(1662年)には寛文近江・若狭地震、寛文6年(1666年)には洪水に見舞われた。嘉高は寛文7年(1667年)に嗣子無く没した。

第4代藩主として、嘉高の母の縁戚に当たる分部信政(旗本池田長信の子。池田長常の孫)が養嗣子として迎えられた。寛文9年(1669年)5月には大洪水により高島郡一帯に被害が出たが、大溝藩領でも1万石の損毛を受け、幕府の御蔵米3000石を拝借して切り抜けている[9]延宝4年(1676年)5月にも大洪水に見舞われて1万3000石が徴収できず、それによって参勤交代の免除を幕府に願い出ているほどの財政破綻状態に陥っている[9]

江戸時代中・後期

度重なる災害に加え、大坂加番などを課せられたことで、藩財政は江戸時代中期頃になると火の車となった。6代藩主分部光命の時代には、延享4年(1747年)と寛延2年(1749年)の2度にわたり大溝城下が大火に見舞われた。

天明5年(1785年)に藩主となった第8代・分部光実は「中興の英主」とも評される[10]。光実は藩校「修身堂」を開設するとともに[5][10]、財政改革を断行した。ただし光実の財政改革については「効果は限られたもの」[10]といった評価がある。

第11代藩主・分部光貞のときに幕末期の動乱を迎えた。文久3年(1863年)の八月十八日の政変において、光貞は自ら兵を率いて京都の守備に当たった。光貞は版籍奉還の翌年に死去し、子の分部光謙が9歳で知藩事を継ぐ。しかし藩財政は極めて悪化しており、大溝藩は明治4年(1871年)7月の廃藩置県に先立って廃藩願いを出して受理された[注釈 3]。大溝藩は廃藩となり、大津県に編入された。

なお、光謙はその後競馬に傾倒して家産を浪費し、爵位(子爵)を返上するなど浮沈の多い人生を送った。後半生は旧領大溝に暮らし、1944年昭和19年)11月29日に死去した。幕末・明治維新期を生きた大名(藩知事を含んだ場合)としては最後まで生きた人物である。

歴代藩主

分部家

外様。2万石。

  1. 分部光信(みつのぶ)【元和5年(1619年)8月27日藩主就任-寛永20年(1643年)2月22日死去】
  2. 分部嘉治(よしはる)【寛永20年3月26日藩主就任-明暦4年(1658年)7月10日殺害】
  3. 分部嘉高(よしたか)【万治元年(1658年)閏12月2日藩主就任-寛文7年(1667年)6月12日死去】
  4. 分部信政(のぶまさ)【寛文7年8月28日(または27日)藩主就任-正徳4年(1714年)6月23日隠居】
  5. 分部光忠(みつただ)【正徳4年6月23日藩主就任-享保16年(1731年)3月14日死去】
  6. 分部光命(みつなり)【享保16年5月6日藩主就任-宝暦4年(1754年)9月7日隠居】
  7. 分部光庸(みつつね)【宝暦4年9月7日藩主就任-天明5年(1785年)3月10日隠居】
  8. 分部光実(みつざね)【天明5年3月10日藩主就任-文化5年(1808年)4月14日死去】
  9. 分部光邦(みつくに)【文化5年6月15日藩主就任-文化7年(1810年)9月22日(または27日)死去】
  10. 分部光寧(みつやす)【文化7年11月19日藩主就任-天保2年(1831年)3月10日隠居】
  11. 分部光貞(みつさだ)【天保2年3月10日藩主就任-明治3年(1870年)4月12日死去】
  12. 分部光謙(みつのり)【明治3年7月28日藩知事就任-明治4年(1871年)6月23日辞任】

注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 旧上野藩領は津藩と紀州藩によって分割された。古くからの港町である白子湊はこのとき紀州藩領となった。
  3. ^ 財政難を原因として自ら廃藩した藩には、他に河内狭山藩などがある。
  4. ^ 大溝・打下村をはじめ20か村が一円支配地、17か村が入組支配地[12]。元禄年間と推定される史料では、高島郡島村・下古賀村において8領主による相給であった[12]
  5. ^ 滋賀県立公文書館には「野洲郡矢島村の旧大溝藩出張陣屋払下金の処分方伺」に関する文書がある[20]
  6. ^ 同一史料に依拠した三重県史編さん班は「上野藩時代からの家臣は122名」とする[8]
  7. ^ 藤樹の研究者であった柴田甚五郎が明治時代に唱えた説[33]

出典

  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(397ページ)
  2. ^ a b c d 重要文化的景観「大溝の水辺景観」”. 高島市 (2018年5月8日). 2022年1月3日閲覧。
  3. ^ a b c 八杉淳 1989, p. 171.
  4. ^ a b c おおみぞこみぞ通信 9号(大溝藩開藩400周年記念号)”. 大溝の水辺景観まちづくり協議会 (2018年11月). 2022年1月3日閲覧。
  5. ^ a b c 藤田恒春. “大溝藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年1月3日閲覧。
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.6
  7. ^ a b 上野城と分部氏の活躍、そして転封”. 歴史の情報蔵. 三重県県史編さん班. 2022年1月3日閲覧。
  8. ^ a b 第61話 伊勢上野初代藩主 分部光嘉”. 歴史の情報蔵. 三重県県史編さん班. 2022年1月3日閲覧。
  9. ^ a b c d 鎌田道隆 1982, p. 4.
  10. ^ a b c 大溝藩”. 藩名・旧国名がわかる事典. 2022年1月3日閲覧。
  11. ^ 鎌田道隆 1982, pp. 14–15.
  12. ^ a b c d e 鎌田道隆 1982, p. 3.
  13. ^ 鎌田道隆 1982, p. 2.
  14. ^ 中井均 2021, pp. 78–79.
  15. ^ a b c d 中井均 2021, p. 70.
  16. ^ 中井均 2021, p. 76.
  17. ^ a b c 中井均 2021, p. 91.
  18. ^ a b c 中井均 2021, p. 88.
  19. ^ 矢島御所(矢島館) 近江国(守山)”. 2022年1月9日閲覧。[信頼性要検証]
  20. ^ 土木掛書類(令参事指令)”. 滋賀県立公文書館所蔵資料検索システム. 2022年1月9日閲覧。
  21. ^ a b c d 鎌田道隆 1982, p. 5.
  22. ^ a b c d 鎌田道隆 1982, p. 13.
  23. ^ a b 鎌田道隆 1982, p. 15.
  24. ^ 鎌田道隆 1982, pp. 6–7, 15.
  25. ^ a b c d e f g 鎌田道隆 1982, p. 11.
  26. ^ 鎌田道隆 1982, pp. 8, 10.
  27. ^ a b 鎌田道隆 1982, p. 8.
  28. ^ 近藤重蔵の墓”. 高島市. 2022年1月3日閲覧。
  29. ^ a b c 中村貢 1966, p. 76.
  30. ^ 中江藤樹”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年1月8日閲覧。
  31. ^ 高島市歴史散歩 No.43 中江藤樹先生と大溝」『広報たかしま』第70号、2008年7月1日、2022年1月4日閲覧 
  32. ^ 中江藤樹について”. 中江藤樹生誕400年祭. 高島市. 2022年1月4日閲覧。
  33. ^ a b 高橋文博. “近世学問都市京都 中江藤樹学派と京都”. 2022年1月4日閲覧。
  34. ^ 【140408記者提供資料】第25回記念館小企画展「~近江聖人中江藤樹の高弟~ 双璧 熊沢蕃山・淵岡山」開催”. 高島市. 2022年1月4日閲覧。
  35. ^ 常省祭”. 公益財団法人藤樹書院. 2022年1月4日閲覧。
  36. ^ 大塩ゆかりの地を訪ねて⑥「大塩平八郎門人と藤樹書院」”. 大塩事件研究会. 2022年1月9日閲覧。
  37. ^ a b c d 膽吹覚 2008, p. 51.
  38. ^ a b 中村徳勝”. 高島ものしり百科. 高島市立図書館. 2022年1月7日閲覧。
  39. ^ a b 中井均 2021, p. 71.
  40. ^ 中村鸞渓”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
  41. ^ a b c d 膽吹覚 2008, p. 52.
  42. ^ 膽吹覚 2008, pp. 51–52.
  43. ^ 膽吹覚 2008, pp. 51, 55.
  44. ^ 膽吹覚 2008, p. 55.
  45. ^ 膽吹覚 2008, pp. 55–56.
  46. ^ 大溝藩分部家文書”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2022年1月3日閲覧。
  47. ^ 滋賀県指定史跡指定 平成4年3月31日 教育委員会告示第2号(平成16年5月14日施行)”. 滋賀県. 2022年1月3日閲覧。


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