中江藤樹と藤樹書院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 03:16 UTC 版)
日本の陽明学派の祖とされ「近江聖人」と尊称される儒学者の中江藤樹は、藩領の小川村(現在の高島市安曇川町上小川)で生まれた。寛永11年(1634年)に帰郷して小川村に私塾を開いて学問を講じ(自宅が手狭になったために、死の半年前に「藤樹書院」が建設される)、慶安元年(1648年)に41歳で没するまで郷里で過ごす。正保3年(1647年)に3代藩主分部嘉治に招かれているが、藤樹の死後に大溝藩から弟子たちは解散を命じられた。陽明学を警戒した江戸幕府が大溝藩を通して解散を命じたとする説があるが、実際に幕府の命令があったかは明確ではない:7。藤樹書院は、中江藤樹の晩年の子である中江常省らによって受け継がれた。 高名な陽明学者である大坂町奉行与力・大塩平八郎(大塩中斎)は、藤樹の旧跡をたどることを念願としており、天保3年(1832年)に初めて藤樹書院を訪れた。以後、藤樹書院に『王陽明全集』を寄贈したり、講義を行ったりするなど、大溝の人々とも親交を結んだ。天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱では、小川村の医師志村周次が決起に参加している。大塩の学風に共鳴する者も少なくなかった大溝藩には動揺が走り、大塩の著作が焼却されたり隠匿されたりしたという(分部光貞参照)。
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