大山泰彦 組手スタイル

大山泰彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 06:43 UTC 版)

組手スタイル

の習得が早く、フットワークを生かした素早い動きで相手を翻弄し、技の切れで倒すスタイルだった。泰彦の上段への中足蹴りは、黒崎健時から「禁じ手」と言い渡されていたほど強力だった[15]

大山倍達
山崎照朝と並ぶ天才[3][4]。泰彦の絶好調の頃の蹴りは文字通り風車だったよ[2]。とにかく迅かった[2]。泰彦はサッカーの経験もあるから、それが生かされたのではないか。ヌンチャクトンファーなども、容易に習得してしまう上手さを持っていた。
石橋雅史
弟の泰彦くんはすばしっこいんだよ。そういうものが身につけばもっと伸びると思っていたら、その通りになったからね。[15]
安田英治
大山茂と泰彦の兄弟も僕がよく教えたんですけども、泰彦はまだ小さかったけれど覚えが早くてね。『何か一つこうしろ』と言うと、僕が次に道場へ来る時にはもう覚えているわけです。[9]
黒崎健時
泰彦の方が春山[注釈 1]よりいくらか上じゃなかったかな[16]大山道場時代では大沢昇と泰彦、この二人が一番だったろう。泰彦は速かったし、うまかった[7]。強さというものは相対的なものだから一概に決めかねるが、その全盛期に於いて他の誰よりも技が切れた、ということで言えば文句なしに泰彦だな[2]
郷田勇三
当時は黒帯茶帯の差が大きかったんだけれども、春山先輩と泰彦師範は黒帯が真剣になって相手をする茶帯で、中には組手を避ける黒帯が何人もいた[2][17]。泰彦師範と春山先輩の対決は、フットワークを駆使した出入りの素早いスタイルである泰彦師範と、春山先輩のパワーで押すスタイルの、技と力の対決となって見応えがあった。お互い負けず嫌いでムキになるから、いいライバルだったんじゃないかな[17]。泰彦師範は大山道場時代からフットワークを使って、いろんな技を使っていた[9]。師範が第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場した時は、一度カラテから離れて戻ってきた直後だったんですよ[9]。だから、殆ど稽古していなかった[9]。それでも準優勝してしまったんだから。やはり素質とその前の貯金があったからだろうね[9]
加藤重夫
泰彦先輩のスピードには驚きましたよ。左右どちらも同じように動ける上にスピードがあったからね。どうしてこんな風に動けるんだろう?って不思議だったね。[15]
盧山初雄
泰彦先輩の組手は他の人たちと違い、相手の後ろに回り込み引っ掛けて倒したりするのです。体の柔らかさと天才的な閃きがあった先輩ですね。技を真似して会得しようとしたこともありました。華麗といえば華麗な組手なのですが、その中に天才性を秘めていました。人間には泰彦先輩のように、持って生まれた天分というものがある人もいることを知りました。[9]
山崎照朝
私が入門前に道場見学をした時、いろいろな人たちの組手をみた。その中でも大山泰彦先輩の動きに釘付けになった。先輩はとてつもなく速い動きで、柔道出身らしい相手のパワフルな攻撃を捌いていたが、攻撃に転じた瞬間、突き出した腕を取られ一本背負いで投げられた。私が「やられた!」と思った刹那、先輩は投げられた勢いを利用して投げ返し、上に乗るや否や下段突きを決めた。泰彦先輩の見事なケンカ強さだった。[3]
岸信行
大柄な相手と戦う時に真っ直ぐ中へ入るとみせかけて、背後に回りこみ片手を首に回し、もう片方の手は髪をつかんで、床に引き倒した。ヒントになったのは「天才空手家」と呼ばれていた大山泰彦先輩の左右にパッパッと飛ぶ動きだったんだよ。泰彦先輩の動きは風車に例えられるぐらい機敏だったからね。俺は泰彦先輩のそのサイドへの動きを見ていて「あぁこの動きいいなあ」と思い、そこからこの技を作り上げていった。[18]
佐藤勝昭
先輩たちから聞いた話だが、ある時FBIの高官が来日し、彼らの前で中村忠先輩と大山泰彦先輩が模範組手を行った。両者互いにじっとして動かず、隙をうかがう。そして、接近した次の瞬間にはもう離れていた。そのとき、中村先輩の口から、歯が2,3本、ポロリと落ちたという。FBIの高官は、あまりのそのパンチの速さと威力に、そして真剣勝負の迫力に驚愕したということだった。

泰彦先輩は第3回全日本選手権にも出場した。かつての伝説的な「触れなば切れん」といった強さは最早なかったが、実に巧いのである。フットワークを使った速い動きで後ろ蹴りパンチを繰り出し、相手を追い込む。それ以上に素晴らしいのは完璧な受けである。試合ぶりは老獪で、いつの間にか自分のペースにもちこんで、相手の技を殺す。相手は自分の技を出す暇もなく、気が付くと試合が終わっている、といったあんばいだった。この時期の泰彦先輩は相手を徹底的に叩きのめす破壊力こそなかったが、相手の実力を封じて試合を進める円熟さを示した。[14]

磯部清次
大山泰彦先輩こそ「真の天才」だっただろう。大山総裁自ら泰彦先輩の組手は天才的だと絶賛していた程である。もちろん私にとって、泰彦先輩は雲の上の存在だったという事は言うまでもない。私が本部道場に入門した当時、泰彦先輩は休会中だった。弁護士になるため、勉強中だったのだ。そのため、5~6年は空手から離れていたはずである。ところが、私が茶帯になった頃、泰彦先輩が本部道場に戻ってきた。

先輩の事を噂に聞いていた私は、「この人が泰彦先輩か」と有名人を見るような目付きで眺めていたものである。泰彦先輩の組手を何度も目にしたが、技の切れ味・スピード・身のこなしは当時の本部道場でも随一だったと記憶している。対戦相手を華麗な技で翻弄する姿は、まさに天才の名に相応しいものだった。私は泰彦の先輩の組手を見て『5~6年のブランクがあるにもかかわらずこれほど凄いのだから、数年前はどれだけ強かったのだろう』と心底感心していた。[5]

大石代悟
大山泰彦先輩と山崎照朝先輩。この二人が極真カラテが輩出した代表的な天才ですね。泰彦先輩の空手に対する理論と、全体の動きそのものが天性のもので、他人が真似できるような次元ではありませんでした。

私と泰彦先輩の出会いは、1970年1月末に山崎先輩が指導するクラスに出席した時でした。稽古終了後に白帯締めた人が道場に入ってきたんです。そうしたら山崎先輩が入ってきた白帯に対して、姿勢を正して『押忍』と頭を下げたんです。山崎先輩はムダな事は一切しゃべらず、めったに笑ったりもしない人でした。私の憧れで、本当にストイックで一徹な先輩で、凛として、人を近づけないような、そしてまず人に頭を下げないような人でした。その山崎先輩が入ってきた白帯に対して、頭を下げたんです。私も負けん気だけは強かったですし、黄帯を締めていましたからビックリして「何だ、この白帯は?」と思いました。

するとその白帯から「君、ちょっと組手の相手をしてくれないか」と手招きされたんです。「相手をしていいのかどうか」と思っていたら、滅多に笑わない山崎先輩が笑いながら、「OK」の合図をされたのです。それで組手をしたのですが、あっという間に転がされました。もう1回向かい合ったら、またやられました。黄帯を締めていた私は「どんな偉い人かわからないけど、やっぱり白帯に負けちゃいけない」と思い、また向かっていたら、3度目はより一層鮮やかに転がされました。そこで山崎先輩が「先輩、もういいでしょう」と言ったんです。その白帯が泰彦先輩でした。

あとになって、背後に回り込まれていたのがわかったのですが、あまりに速過ぎてその時はわからなかったんです。泰彦先輩の次元の違う強さを嫌というほど、思い知らされました。泰彦先輩が「道着を着たのは何年ぶり」など山崎先輩といろいろ話し合ってましたが、私は幸運にも、二人の天才を目の前でみる事ができました。そして『私にできる事は努力あるのみ』と思い知りました。[4]


注釈

  1. ^ a b 劇画『空手バカ一代』に登場する「有明省吾」のモデルで、大山倍達が「歴代の弟子の中で一番強い」と語った人物。
  2. ^ 第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ベスト16。
  3. ^ 第4回トーア杯新空手ジャパンオープン中量級チャンピオン
  4. ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き前蹴り回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから「闘将」と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
  5. ^ 親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。
  6. ^ 第1回全世界選手権10位。
  7. ^ 直径1.5センチメートル、長さ7センチメートルの棒で、対戦者同士に掴みを防止するために両手に持たせる棒の事である。
  8. ^ 剛柔流空手の達人で大山倍達の師匠であった。

出典

  1. ^ a b 『月刊フルコンタクトKARATE』No.18、福昌堂1988年8月8日、3 - 20頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 真樹日佐夫『極真カラテ27人の侍』サンケイ出版、1986年、21-28頁。 
  3. ^ a b c d 山崎照朝 - 円の受けと構えの極意-華麗なる組手の秘密」『月刊フルコンタクトKARATE』1995年、10月号、福昌堂、9頁、15頁。
  4. ^ a b c 『月刊フルコンタクトKARATE』2006年、12月号、福昌堂、61頁。
  5. ^ a b 磯部清次 『ザ・ブラジル極真』スキージャーナル1999年、117 - 118頁。
  6. ^ 中村忠 『人間空手』 主婦の友社1988年、82 - 91頁。
  7. ^ a b ゴング格闘技』No.35、日本スポーツ出版社1996年、34頁、50頁。
  8. ^ 国際空手道連盟極真会館 - 年度別昇段登録簿 (国内)」(日本語)『極真カラテ総鑑』(初版)株式会社I.K.O. 出版事務局(原著2001年4月20日)、62-64頁。ISBN 4816412506 
  9. ^ a b c d e f g 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』日本スポーツ出版社、1997年、44 - 45頁、49頁、58 - 61頁。
  10. ^ 『格闘Kマガジン』2001年、3月号、ぴいぷる社、8 - 9頁。
  11. ^ a b c 『ゴング格闘技』1989年、5月号、日本スポーツ出版社、14頁。
  12. ^ a b 『現代カラテマガジン』15巻通算160号、1986年、7・8月合併号、真樹プロダクション、41頁。
  13. ^ 極真館吉川支部・鈴木浩平極真館吉川支部→思い出の写真」昭和48年(1973年)- 池袋白雲閣での大山泰彦氏壮行会。
  14. ^ a b 佐藤勝昭『王道の空手』講談社、1987年、193頁、208頁、226頁。
  15. ^ a b c 「わが青春の大山道場を語ろう」『月刊フルコンタクトKARATE』1997年、12月号、福昌堂、4頁、23頁、41頁。
  16. ^ 『格闘Kマガジン』78号、March, 2005、ぴいぷる社、13頁。
  17. ^ a b 「春山一郎に関する四つの証言 (3) 郷田勇三」『蘇る伝説「大山道場」読本』日本スポーツ出版社、2000年、28 - 29頁。
  18. ^ 不動武『空手仙人 - 岸信行 - 枕にキノコが生えるまで泣け!! - 不敗の人生術』東邦出版2009年、233 - 234頁。
  19. ^ a b 『極真黄金伝説(ゴング格闘技12月号増刊)』日本スポーツ出版社 1993年12月15日、46 - 47頁。
  20. ^ 『月刊フルコンタクトKARATE』2号、October, 1986、福昌堂、54頁。
  21. ^ 『格闘Kマガジン』2002年、6月号、ぴいぷる社、6頁、24頁。
  22. ^ 『ワールド空手』1999年、3月号、ぴいぷる社、48-52頁。
  23. ^ 『拳聖 - 大山倍達 - 地上最強の空手(月刊フルコンタクトKARATE4月号別冊)』福昌堂、1988年、18頁。
  24. ^ 北之口太『一撃の拳 - 松井章圭』講談社、2005年、184 - 186頁。





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