北宋 歴史

北宋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/20 05:09 UTC 版)

歴史

北宋

建国

の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋の太祖趙匡胤である。

趙匡胤

世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳で急死。あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ)

このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた節度使藩鎮)から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることにした。

更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体はの時代に始まったものであるが、武人優勢の五代では科挙合格者の地位は低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を皇帝の物とした。

体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北荊南であり、更に湖南を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。

後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された(千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、更に太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。

また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。

五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。宮崎市定はこの三者を日本の織田信長豊臣秀吉徳川家康にそれぞれなぞらえている[1]

澶淵の盟

太宗は太平興国9年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。

しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方のが南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。

澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。

一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山においてを祀る封禅の儀、汾陰[注釈 3] において地を祀る儀、がそれぞれ執り行われた。

真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、慶暦4年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。

これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦欧陽脩などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことをそれまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。

強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由にを開く事が出来、道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。

しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと(朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。

仁宗は40年の長き治世の末嘉祐8年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。濮議とは英宗の実父である「濮」王趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。元老たる韓琦・欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。

新法・旧法の争い

王安石

結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平4年(1067年)に4年の短い治世で崩御。子の趙頊(神宗)が即位する。20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。

白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。

新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては司馬光蘇軾らの名が挙がる。王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。

神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊の改革と呼ばれる官制改革を行い、西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、その裏で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。

元豊8年(1085年)、神宗が崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった宣仁太后垂簾聴政を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、宣仁太后が元祐8年(1093年)に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。

この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が度々入れ替わることで国政は混乱した。一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。

滅亡

元符3年(1100年)に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。

蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して汚職や増税を行うという有様であった。これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が宣和2年(1120年)の方臘の乱である。また中国四大奇書の一つとして知られる水滸伝は、この時代背景を元とした創作である。

一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年を建てる。この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、重和元年(1118年)金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。しかし同じ宣和2年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。

翌宣和3年(1121年)に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。

五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、この宋の背信行為に金の太宗は怒り、宣和7年(1125年)から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。

金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。

包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、二度と帰還することはできなかった。また、同じく4歳から28歳までの多くの宋室の皇女達が連行され、金の王族達の妾にされるか(入宮)、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。[2] これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。

その後、たまたま救援要請の使者として靖康の変時に城外にいた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。


注釈

  1. ^ 独裁皇帝ではない。この違いに留意。
  2. ^ 北周の禁軍は殿前軍と侍衛親軍の2つがあり、殿前軍の長官が都点検で副長官が都指揮使。侍衛親軍は都指揮使が長官。
  3. ^ 山西省万栄県の北方
  4. ^ 冊封#冊封体制の崩壊と再生も参照。
  5. ^ 河北省雄県
  6. ^ 河北省覇州市
  7. ^ 寧夏回族自治区固原市原州区
  8. ^ 陝西省志丹県
  9. ^ 河北省濮陽県
  10. ^ 寧夏回族自治区呉忠市
  11. ^ 南流する黄河の西側

出典

  1. ^ 宮崎1935
  2. ^ 『靖康稗史箋證・卷3』
  3. ^ a b この節は宮崎1963・『中国歴代職官事典』を参照。
  4. ^ この節は宮崎1953・『中国歴代職官事典』を参照。
  5. ^ この節は宮崎1946・1963を参照。
  6. ^ 衣川強『宋代官僚社会史研究』(汲古書院、2006年)P453-464
  7. ^ この節は宮崎1930・1945を参照。
  8. ^ 山川『中国史3』、P136
  9. ^ この節は宮崎1954を参照。
  10. ^ この節は曾我部1937を参照。
  11. ^ この節は佐伯1987・金2000を参照。
  12. ^ a b c 周藤(2004)
  13. ^ この節は木宮1955・森1948a・1948b・1948c・1950を参照





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北宋」の関連用語

北宋のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北宋のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北宋 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS