兵糧 概要

兵糧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 04:45 UTC 版)

概要

古来から戦場における食料の重要性は語られており、紀元前の兵法書『孫子』の作戦篇には自国から食料を輸送するとコストが高いから、敵から食料を奪うのが良いと説いている。

このような軍が現地の住民から強制的に物資を収集する徴発、軍事力を行使した略奪や押買などは現地住民の反発を買いやすい。そのため、現地政府の要請で現地住民に提供してもらうようお願いする供出や、長期的な戦争になると現地住民の協力が必要となるため高値で取引することもあった。

高値で買い続けるのも軍には負担となるため、現地の住民に戦後きちんとした額を払う約束として軍用手票という臨時通貨で支払いが行わるようになった。この手法は、現地の物資を調達するとともに、戦争に勝たないと紙切れになるため現地住民の応援も得られるものであったが、当然のごとく敗北すると踏み倒しになり国際問題となる。

また、現地から食料を得られないように村落を焼き払う焦土作戦塩土化という塩を撒いて占領した敵対民族の都市で根絶やしを願う儀式も行われた。

日本での歴史

律令時代(古代)

古来から従軍する兵士には兵糧携帯の義務があり、律令法においては6及び塩2の自弁が定められていたが、実際には60日分に過ぎず、かつ大量の兵糧携帯は場合によっては行軍の妨げになる可能性もあった。そこで、蝦夷討伐に際しては東国からの調達が許され、『延喜式』においては長門国公出挙稲4万束が兵粮料として充てることが定められている。また、実際の軍事行動の際には地元有力者からの献納や徴発に頼ることが多かった。

平安末期-鎌倉時代(中世)

中世以後は一国平均役の一環として徴収される例が見られ、特に源平合戦(治承・寿永の乱)においては平家源氏双方が兵粮米の賦課を行っている。だが、現地における兵粮米の賦課・徴発は兵士による濫妨を招く可能性があった。文治元年(1185年)に源頼朝守護地頭の設置求めて文治の勅許を受けると、同時に荘園国衙領の田1段から兵粮米5升を徴収する権利を得た。だが、国司荘園領主達の反発が強く、翌年には撤回された[1]

南北朝-戦国時代(中世)

南北朝時代に入ると、北朝室町幕府)は 兵粮料所(「半済令」参照のこと)を、南朝朝用分を設定して兵糧確保にあたった[2]。室町幕府や守護大名の職制では、御蔵奉行が兵糧確保の任務にあたっていたが、戦国時代には、平時より蔵入地を設置して兵粮確保に力を注ぎ、戦時に際して小荷駄奉行とその下に小荷駄隊を設けるのが一般的となった。

上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた書)巻六「士鑑・軍役」の「小荷駄奉行のこと」の項目には兵糧を3つに分類しており、「公儀の糧(腰につけ、帰る時に食べる)」、「主人の糧(着陣1前に食べる)」、「私の糧(主人より渡される昼飯で何時でも食べる)」と記し、また、上兵には白米、下兵には黒米(≒玄米:当時は「くろまい」ともよんだ)を渡すことなどが記述されている。

敵方城下の兵糧を買い占めるなどして兵糧を断つ戦術を「兵糧攻め」といい(『広辞苑』)、例として、『信長公記』には豊臣秀吉天正9年(1581年)に、鳥取城に行ったことが記されているが(「鳥取城」も参照)、大大名の財源あって可能な戦術であり、逆に商人との交渉で兵糧米の買い入れに失敗した事例としては、永禄7年(1564年)に国府台城里見義弘太田康資が商人との交渉で価格が折り合わず、岩槻城向けの兵糧を調達できなかった話がある[3]。直接、城の兵糧庫が攻められた事例としては、長篠の戦い(天正3年/1575年)における長篠城がある[4](「長篠の戦い」も参照。火矢による)。

近世

豊臣政権によって兵農分離が進められると、武士が兵士としての役目を行うことが原則となるとともに兵糧携帯の義務が廃されて、代わりに兵糧の調達・運搬は農民ら領民の義務とされた。また、大名は戦時に備えてあらかじめ米や塩・味噌などの調達・輸送計画を立案してこれに基づいた兵糧調達・購入が行われ、円滑な軍隊動員が行われるようになった。これと同時に現地における兵糧調達は原則として禁止されて濫妨(略奪行為)や刈田軍律によって厳しく禁じられることになった。

大日本帝国の陸軍給与令の兵食

兵営内で炊爨し、在営中の下士官兵およびその他特に定められた者に給される。 陸軍における兵食の給与量は、平時は主食として精米600g、精麦186g を給し、副食物はその地方の物価その他の状況を顧慮して定められた定額を現在人員に対して部隊に交付し、該部隊において適宜調弁して炊爨調理のうえ給与し、演習あるいは特殊の労務に服する者にはこのほか増賄をなす。

糧食および食料
日額
食糧 賄料
精米 精麦 金額 地方区分
600g 186g 19銭1厘 第一区
18銭8厘 第二区
18銭5厘 第三区
18銭2厘 第四区
野外増賄料 4銭2厘
増賄料 6銭5厘
夜食料 1食分6銭

(上の表について)(1)地方区分は、別に定めがある。(2)各区内の賄料は、土地の状況または兵員の多少によって増減することがあるが、1人1日の平均額は、表の金額を超過しない。(3)賄料は、表の金額の範囲内において別に規定するところにより現品で交付することがある。

また拘禁中、留置懲罰中の者には減給の規定がある。 なお平時は上記糧食のかわりに乾パン、缶詰肉などを用いる場合がある。

平時食糧換用品
品目 数量
乾パン 675g
缶詰肉 150g
食塩 12g
醤油エキス 18g

戦時には給養が確実にするために出征部隊にはすべて現品で定量が支給される。

野戦食糧および加給品
区分 基本定量 代用定量
品種 1人1日の定量 品種 1人1日の定量
野戦食糧 主食 精米
精麦
640g
200g
精米
パン
乾パン
855g
1020g
675g
うち1種
副食 肉類 缶詰肉 150g 骨付生肉
骨付塩肉
無骨生肉
無骨塩肉
骨付乾燻肉

無骨塩燻肉
200g
200g
150g
150g
150g
150g
120g
うち1種
野菜類 乾物 110g 生肉 500g
漬物類 梅干
福神漬
40g
40g
うち1種 糠漬
塩漬
60g
60g
うち1種
調味料 醤油エキス
食塩
粉味噌
砂糖
20g
12g
40g
15g
醤油
味噌
0.1l
75g
飲料 3g
加給品 清酒
火酒
甘味品
0.4l
0.1l
120g
うち1種
紙巻煙草 20本

(上の表の野戦食糧について)(1)現地で調弁し得るときは、無骨生肉または卵をそれぞれ260g、骨付生肉を340gまで給することができる。 (2)パンを給する場合は、1食につき砂糖(またはジャム)を35gまで給することができる。 (3)現地調弁の野菜で製造した漬物は、1人1日の定量を100gまでとし、これに要する食塩は適宜使用することができる。 (4)酢、ソースは、醤油と同一割合で換給することができる。 (5)この表のほか所要の香辛料および脂油を給することができる。 (6)特別の状況によって清水の給与を要するときは、飲料および調理用(洗浄その他雑用を含まない)をあわせ1人1日量4lを標準とする。 (7)給与上特別の必要のある場合にかぎりこの表の品種の一部に対し他の品種で換給することができる。その品種定量は戦地の最高等司令官の定めるところによる。

(上の表の加給品について)他の品種で換給する場合にはこの表の品種の価格を標準とする。

さらに状況に応じて一定の増額を行なうほか滞陣間、定量の一部を金額で支給することがある。 また非常の場合には携帯口糧で一時の飢えを凌ぐことになっている。

野戦携帯口糧
品種 1人1日の定量
精米 6合 うち1種
乾パン 180匁
缶詰肉 40匁
食塩 3匁

(上の表について)缶詰肉は騎兵および騎兵隊と行動をともにする部隊の乗馬者は20匁とする。現地で調弁することができるときは野戦糧食の定量まで給することができる。

日本陸軍の身体健康な兵が中程度の兵業に従事した場合の1日の体内消費エネルギー量は平均2769カロリーであり、野外演習、戦闘教練などにおいては5000ないし7000カロリーとされた。 そして諸点を考えると、少なくとも兵1人1日の給与量は3100カロリー以上が必要であるとされた。

陸軍の平時定量は約3160カロリー、戦時定量は3643ないし3797カロリー、携帯口糧(乾パンの場合)は2639カロリーであった。

部隊の給与については、衛生部員ならびに経理委員は廉価で滋養豊富な食品を選択し、品質を毎日検査し、食品の配合ならびに調理法を考究し、時々各人の嗜好を調査考慮して食味の単調を避け、食欲を良好にして兵業に堪え得る立派な体力と健康を保持し、きわめて旺盛な士気を発揚させることに努めなければならないとされた。

馬糧

砂漠で馬に餌袋英語版から食料を与えるイギリス陸軍予備軍ヨーマンリー英語版。餌袋は、横取りを防ぎ馬に必要な量を計画的に与えることができる。

ウマは1日10-20kgと兵士の10倍近い量を食べる[5]。また水は1日20-30L飲む。消化器官には少量ずつしか入らないので、必然的に食事の時間も長くなる[6]。道草を食べさせることもできるが、砂漠、食べられた後の放牧地や進軍ルートでは補給できる量が限られ、そういった場所で活動していたイギリスの部隊では、もっとも兵站を圧迫した品であった[5]

馬糧については、軍記物の記述として、米糠大豆が挙げられる(後述)。一例として、『小田原北条記』巻五「松山合戦(松山城風流合戦)」内の記述として、米糠と藁を馬の糧として出している他、同書巻七の逸話では、戦国時代に「甲斐黒」という馬は1日1(明治期の基準では18リットル超)も大豆を食したと語られている(この内容はあくまで和種馬に対する記述である)。また『寛永諸家系図伝』第一(続群書類従完成会)の酒井忠次の記事には、天正12(1584年)年3月17日に、小牧・長久手の戦いにおいて、「士卒に対して、清洲城に行き、兵糧・糠・藁を運送すべしと告げた」と記述され、合戦前に兵糧・馬糧を備えさせた。

近代期の日本軍における軍馬の馬糧に関しては、「糧秣」「携帯糧秣」も参照。

第二次世界大戦時の日本では、国民が総動員されたため、子供も軍馬の馬糧となる干し草作りを課されたとされ、一例として、群馬県東村(現伊勢崎市)では、昭和17年、夏休みとなると、軍馬用の干し草作りを課された[7]

栄養
1914年ごろに、馬やラバが必要な栄養についてアメリカとイギリスが調査を行っている[8][9]

  1. ^ 『山川詳説日本史図録』(山川出版社第五版2008年)p.93.2-1の解説。
  2. ^ 実際は南朝後醍醐天皇や2代後村上天皇の政策を幕府方が倣った形である。呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(朝日文庫、2020年)p.205.
  3. ^ 伊藤潤・板嶋恒明『北条氏康 関東に王道楽土を築いた男』 PHP新書、2017年 ISBN 978-4-569-83676-8 p.124.
  4. ^ 長篠城址史跡保存会(新城市)『設楽原歴史資料館』パンフレットを一部引用。
  5. ^ a b Army horse care in the First World War” (英語). www.nam.ac.uk. National Army Museum英語版. 2022年9月19日閲覧。
  6. ^ 道草を食いながらどこまで行けるか?”. www.ntv.co.jp. 日本テレビ. 2022年9月28日閲覧。
  7. ^ 五十嵐富夫 『群馬県の歴史シリーズ5 図説伊勢崎・佐波の歴史』 あかぎ出版 p.181.
  8. ^ NUTRITION OF HORSES AND MULES アメリカ国立農業図書館(national agricultural library)
  9. ^ Care and Feeding - World War I Centennial”. www.worldwar1centennial.org. 2022年9月19日閲覧。
  10. ^ Dalby, Andrew. "Posca" entry in Food in the Ancient World from A to Z, p. 270. Routledge, 2003. ISBN 0-415-23259-7
  11. ^ Cardano, Girolamo. Emperor Nero: Son of Promise, Child of Hope (translated by Angelo Paratico) pp.185-6, Gingko Edizioni, Verona, 2019. ISBN 978-1689118538
  12. ^ Clarkson, Janet (2010). Soup : a global history. London: Reaktion. pp. 118-119. ISBN 978-1-86189-774-9. OCLC 642290114 
  13. ^ a b Ship's Biscuits – Royal Navy hardtack”. Royal Navy Museum. 2009年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月14日閲覧。
  14. ^ Food That Conquered The World: Alexander the Great 出版者:medium.com 参照日:2021.7.27
  15. ^ a b 高平鳴海・愛甲えめたろう・銅大・草根胡丹・天宮華蓮『図解 食の歴史』(新紀元社、2012年)
  16. ^ giant-tortoise NATIONAL MARITIME HISTORICAL SOCIETY
  17. ^ Galápagos Tortoise サンディエゴ動物園
  18. ^ Xavier Maugendre L'Europe des hymnes dans leurs contexte historique et musical, Éditions Mardaga, 1996, p. 48
  19. ^ Е. Э. Месснер. Лик современной войны. Буэнос-Айрес, 1959.
  20. ^ 古代軍隊吃甚麼:幾乎没有肉 常殺人做肉干
  21. ^ 薩伯森撰;張善文、趙麟斌評注 (2011年2月). 《垂涏錄評注》. 北京市: 北京大學出版社. pp. 第63頁. ISBN 9787301179949 
  22. ^ Wayessa, Bula (2011年9月1日). “Buna Qalaa: A Quest for Traditional Uses of Coffee Among Oromo People with Special Emphasis on Wallaga, Ethiopia”. African Diaspora Archaeology Newsletter. 2022年11月2日閲覧。
  23. ^ Food That Conquered The World: Napoleon’s Grande Armée 出版者:medium.com
  24. ^ Franzbranntwein DWDS(ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー英語版電子辞書プロジェクト)
  25. ^ Tradice se značkou ALPA, https://www.alpa.cz/cs/tradice 
  26. ^ 理由は笑えぬ「オナラ防止」 イギリス空軍 みんな大好きベイクドビーンズを食べないワケ 著:白石 光 出版:乗りものニュース 掲載日:2020.11.26 参照日:2020.11.26
  27. ^ Henry, Mark R. and Chappell, Mike, The US Army in World War II (1): The Pacific, Osprey Publishing (2000), ISBN 1-85532-995-6, pp.20-21
  28. ^ Pauly, William H (1918). “Condensery competition with factories”. Proceedings of the Wisconsin Cheese Makers' Association Annual Conventions 1916-17-18: 155-165. 
  29. ^ 海上自衛隊:海上自衛隊レシピページ”. www.mod.go.jp. 2022年6月12日閲覧。
  30. ^ 打倒「海自カレー」 空揚げで親近感アピール―空自 時事通信 更新日:2020年10月17日
  31. ^ 清水健太郎, 小倉裕司, 高橋弘毅, 和佐勝史, 平野賢一「極度の低栄養状態における低血糖に伴うリフィーディング症候群」『学会誌JSPEN』第2巻第2号、日本臨床栄養代謝学会、2020年、95-102頁、doi:10.11244/ejspen.2.2_95NAID 130007945657 
  32. ^ Knowles, Elizabeth KnowlesElizabeth (2006年1月1日). “an army marches on its stomach” (英語). Oxford University Press. doi:10.1093/acref/9780198609810.001.0001/acref-9780198609810-e-411. 2022年9月19日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「兵糧」の関連用語

兵糧のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



兵糧のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの兵糧 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS