三湖伝説
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十和田山青龍権現信仰
十和田湖はかつては信仰の湖であり、名の知れた霊地であった。南部藩や八戸藩ではこれを十和田山と呼び、湖中の十和田山青龍権現がその信仰の対象であった。それは、僧侶や山岳修行の場で民間の信仰登山、聖地巡礼の場であり、江戸時代は「額田嶽熊野山十湾寺」を称する神仏習合の寺院があって、十和田青龍権現(南祖坊)を本地仏として安置する仏堂「十和田御堂(みどう)」が建っていた。この堂は神仏分離に際して神社になり、今は十和田神社として、祭神はヤマトタケルになっている。十和田神社の右奥、岩山を登った先の台地(神泉苑)は、南祖坊が入定して青龍権現となったと伝わる中湖と、「カミ」が宿る御倉半島の「御室(奥の院)」をのぞむ神聖な場所であり、台地を降りた中湖の水際には、参拝者が占いと祈り、散供(さんぐ)打ちを行う「占場(オサゴ場)」があった[4]。
宝暦の頃、南部藩の社堂を記載した『御領分社堂』では「十和田青龍権現」として、大同2年(807年)に南蔵坊という僧が、八郎太郎を追い出して、青龍大権現として小社に祀られていると記載されている。青森市油川の熊野神社にある1559年(永禄2年)の棟札に「熊野山十二所権現勧請於十彎寺」とある「十彎寺」はこの社の前身と思われ、少なくとも16世紀にはこの社の歴史が遡ることができ、同時に熊野修験が関係を持つことを示している[5]。
1727年(享保12年)の『津軽一統志』では「津軽と糠部の境糠壇の嶽に湖水有、十灣(とわだ)の沼と云ふ也、地神五代より始る也、數ヶ年に至って大同二年斗賀靈驗堂の宗徒南蔵坊と云法師、八龍を追出し十灣の沼に入る。今天文十五年まで及八百餘歳也」とある。『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764-1801年)には「相伝フ。往古永福寺ノ塔頭ニ南祖坊ナルモノアリ」として同じ話を簡略に説いている。『奥々風土記』(明治3-4年?)にもほぼ同じ記述がある。『吾妻むかし物語』(元禄年間、1688-1703年)では、南祖は糠部の生まれで幼名を糠部丸と呼び、永福寺の僧とも額田岳熊野十滝寺の僧ともある。菅江真澄の『十曲湖』(文化4年、1807年)では、永福寺の僧とも三戸郡科町龍現寺(科は斗賀の、龍現寺は霊現堂の誤りであろう)のほとりにいた大満坊という修験が南蔵坊と名を改めたとしている。鹿角では、安達太良山の麓の出身という異説もあると説いている[6]。
南部藩では南祖坊が実在の法印さまとして、上下の信仰を集めていた。『祐清私記』では「南部利直が寝ている姿を見ると、蛇身に見えた」という話の後に「南部利直の夢に南祖坊が現れ私は蛇身を免れるために貴公に生まれ変わったと告げる。利直がこのことを次衆に告げると、これを真実と考える者が多かった。利直が寛永年間に江戸で没したが、その時国元の東禅寺の大英和尚と江戸の金地院が、それぞれ双方夢の話を全く知らなく、相談したわけでもないのに、同じく南宗院殿の号を撰んだ。利直が南祖坊の生まれ変わりであることはこれによっても明らかである。利直の葬儀が三戸で行われた時、空がにわかにかき曇って大雨電雷した」と書いている。[注釈 1][7]。
南部藩においては、三湖物語の一方の雄である八郎太郎は敵役にとどまっていて、物語の主役を南祖坊に譲っている[8]。南祖坊の物語は、奥羽地方の盲人たちによって琵琶や三味線などを伴奏として、いわゆる奥浄瑠璃などで神仏・社寺の縁起を説いた本地物の一つとして江戸時代に語られていた。天明(1781-1789年)の頃に、盛岡の本町にいた須磨都(すまいち)という座頭は十和田の本地を語り美声で名を知られていたという。奥浄瑠璃のほかに、南部の山伏や修験の徒がこれらの話を人々に語って聞かせていたのではないかと考えられる[9]。
十和田の本地の記録は南部地方に数多く存在していたが、現在知られている十和田本地を『雨の神―信仰と伝説』では物語の形から3つに分類している。第一類は『十和田山本地由来[10][11]』や『十和田由來記[12][13]』、『十和田山由來記[14][15][16]』『十和田山本地由来記[17][18][19][20]』、『十和田山本地[21][22]』、『十和田本地[23]』、『十和田山本地記録[24]』、『十和田山本地記録[25]』、『十曲潟本地記録[25][26]』、『十和田山青龍大権現[27][28]』などで、第二類は『十和田記[29][30]』や『十和田縁起[31]』、『十和田由來記[32][33][34]』、『十和田本地[24]』、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地[35]』、『奥州十和田山正一位大権現御本地[36]』、『十和田御縁起[37]』などで、第三類は『十和田神教記[38]』、『十和田山神教記[39][40]』、『十和田神教記実秘録[24][41]』などである。これらは筆写年代がはっきりと分かっている最も古いものは、『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』の1801年(寛政16年)である[42][注釈 2]。
書名 | 『十和田山由来記』(第一類) | 『十和田記』(第二類) | 『十和田山神教記』(第三類) |
---|---|---|---|
筆者年代 | 不明 | 文政12年(1829年) | 万延元年(1860年) |
書出年代 | 貞和年間(1345-1350年) | 天長元年(824年)頃 | 正延(?)元年 |
南祖坊の名前(幼名) | 南宗坊(熊之進) | 南祖坊(善正) | 南祖法師(南祖丸) |
南祖坊の出生地 | 七崎村 | 斗賀村 | 斗賀村 |
南祖坊の父 | 戸渡五郎左衛門 | 善学 | 藤原宗善 |
母の祈願所 | 熊野大権現 | 斗賀の観音堂 | 再現堂観音 |
母の懐妊の奇端 | 胎内に法華経の入る夢 | 夢に白蛇を呑む | 夢に白髪の老人が金の扇子を授ける |
南祖坊の師匠 | 永福寺月躰法印 | 永福寺月法院 | 永福寺住主 |
恋愛と結婚 | お豊と婚約 | 豊姫、玉靏、八郎の妻の浅野、お福 | |
南祖坊の恋敵 | 伊東勝弥 | 大領 | |
父の家臣 | 篠崎八郎左衛門とその子八刀 | 斗賀の別当の藤原式部 | |
出家の原因 | 童子が現れ出家を促す | 母の遺言 | 二人の女性を愛し、困って |
南祖坊の修行場 | 紀伊熊野三所大権現 | 紀伊熊野三所大権現 | 紀伊熊野三所大権現 |
熊野権現からの使者 | 虚空蔵の化身で水精竜王にのる明星王子 | 天童子 | 白髪の老人 |
南祖坊の修行 | 全国行脚し法力で人を救う | 全国行脚し法力で人を救う | 全国行脚し法力で人を救う |
南祖坊の依存経典 | 法華経 | 法華経 | 法華経 |
弥勒の出生 | 一応の目的 | 修行の全目的 | 一応の目的 |
南祖坊の入定 | 十和田湖に龍神となって | 十和田湖に龍神となって | 十和田湖に龍神となって |
八郎太郎の名前 | 八の太郎 | 八郎太郎 | 八郎 |
八郎太郎の出生地 | 八戸の十日市 | 鹿角の草木村 | 斗賀付近 |
八郎太郎の父母 | 父は八太郎沼の大蛇、母は十日市のお藤 | 父は草木村急苗 | 不明 |
八郎太郎の変身 | 岩魚を食べて蛇身となる | 岩魚を食べて蛇身となる | 妻の浅野を奪った南祖坊を恨んで蛇身となる |
戦いの様子 | 細部に渡って記述されている | 簡単に記述されており、法華経の功徳によって敗れる | 南祖坊の捨身行で悔い改める |
八郎太郎の終着地 | 記述されていない | 八郎潟に行き着くまでの物語がいくつも記述されている | 八郎潟を棲家としたと示されるのみ |
三湖伝説第一類は、奥浄瑠璃として伝搬されたものと考えられる。中央からの移入された多くの奥浄瑠璃の物語とは明らかに異質で、在地的な伝承を基にして浄瑠璃的な粧いを凝らされたものと考えられる[44]。
三湖伝説第二類の縁起では八郎太郎の先祖が秋田県大館市比内町独鈷の大日堂や鹿角市小豆沢の大日堂の別当であるとしている。『十和田由来記』では、八郎太郎の父の出身地は赤子とされ「とっこ」とルビがふられている。『十和田記』ではそれが赤谷とされている。ルビはないものの北沼[† 13]が近くにあると記されていることから、それが大館市独鈷の大日堂であることが分かる。十和田信仰の宗派は熊野権現の天台宗であるが、秋田藩内にある独鈷の大日堂の宗派は現在真言宗である。中世、独鈷城周辺を支配していた比内浅利氏は天台宗を信仰していた。1441年(喜吉元年)の熊野の御師米良実報院の『願文』には「あさりの徳子(独鈷)之入道但阿弥(ただあみ)、子息隆慶、合力善阿弥、先達は遊里(由利)住公良春」とある[45]。しかし、『浅利軍記』では独鈷の大日堂は真言宗であると記録されている[46]。そして、江戸時代の秋田藩の政策は真言宗派であった。佐竹氏の水戸時代の第15代当主佐竹義舜の長子である永義は庶腹の子であったので僧籍に入れられた。それを嫌った永義は父義舜の立腹叱責をかえりみず今宮神社において俗籍にかえり元服し今宮姓を名のる。のち永義は天台宗の聖護院につき山伏修験となり、水戸藩内の山伏に対して役銀をとり、山伏の犯罪を成敗する治外法権的支配権を得た。永義の長子の光義は跡目相続をして、常州寺山の城主と同時に山伏修験の頭領になった。光義は大和の大峯山でも修行をして、遂には関東地方全域の頭領の職につき常蓮院と名乗った。1602年佐竹義宣が秋田に転封されると光義は62歳で今宮一族を連れて随行し、平鹿郡増田に住み、まもなく角館に移り63歳で没した。佐竹氏が秋田に転封されると天台宗の聖護院は「羽州は遠国であるから関東の山伏支配は不能である」と一方的に関東一円の山伏支配権を取り上げた。佐竹氏は聖護院と断交して真言宗についた[47]。
『十和田記』では秋田の赤谷という所の大日堂の別当了観という者の女房に、北沼の大蛇が通って急苗という子を産ませた、その九代目の子孫が八郎であるとし、三代目の急苗は先祖が大日堂の別当であった縁によって、小豆沢大日堂の別当を建立したが、大日如来は彼を憎んで請けられず、草木村の民家に落ちて六代にして八郎が生まれたとしている。これは『奥州十和田山正一位青龍大権現御本地』や『十和田本地』(第ニ類)などにも見える(ただし、急苗は久内となっている)。高谷重夫はこれを急苗(久内)は秋田の修験であったため、南部修験の管下にある小豆沢大日堂の別当になることを許されなかったのではないかとした。小豆沢の大日堂は現在は大日霊貴神社となっているが、この社の代々の別当の阿倍氏は、先祖は修験であると称している。この家の系図では、八代目の義守の時、天台僧形たるべしと宣旨を蒙って、養老山喜徳寺顕壽院となった[48]。
『角川日本地名大辞典 2 青森県』の「十和田神社」の項目では三湖伝説は「天台宗修験者と真言宗修験者の宗門上の争いがあったことが、南蔵坊と八郎太郎の争いに仮託されて伝承されたものであろう」としている[49]。高瀬博は「これは羽黒系山伏と熊野系山伏の勢力争いで、熊野系の南祖ノ坊の勝利とみるべきものである」としている[50]。井上隆明は、南祖坊は熊野修験、三戸郡名川霊験堂、同郡五戸町永福寺からして天台宗。湖争いで南祖坊の勝利は、真言文化圏の敗北を表すだろうと記している[51]。高谷重夫は八郎の縁起を奉じる一派の修験があって、それが南部の山伏と相対していて、そのことと本地譚にみられる南祖坊の勝利、八郎太郎の敗北と逃走の物語が照応するのではなかろうかとしている[52]。ただ、物語の多くで南祖坊の師匠が所属する寺院の後継である盛岡永福寺は現在真言宗である。
独鈷大日堂や小豆沢大日堂とだんぶり長者伝説と通じて縁が深い岩手県二戸市浄法寺町の天台寺(天台宗)は915年の三湖物語との関連が語られている十和田火山の大噴火によって成立した可能性が語られている[53]。また、十和田火山の大噴火が原因となった米代川の火山灰による白い濁りは、民話ではそのだんぶり長者伝説と結び付けられている。
十和田湖休屋に置かれた十湾寺を南部藩はここで参拝しない熊野派山伏には行者資格を与えず、外からの勢力に対し山伏を保護し、十和田湖周辺には他勢力を寄せ付けなかった。そのため、出羽(津軽?)の山伏ははるか御鼻部山から参拝して戻るしかなかった[54][52]。また、明治時代初期に初めて休屋を開拓した栗山新兵衛の目的は、南部藩と犬猿の仲であった津軽藩に対する国境警備のための屯田開発が最大の理由であった[55]。十湾寺への参拝者は江戸時代には南部藩領の全域からが主になっていたが、他に八戸藩からと、遠く仙台藩(奥州市)からの参拝者もいた。しかし、津軽藩や秋田藩からの参拝者は記録されていない[56]。
注釈
- ^ 南祖坊に関する伝説は、仙台藩では『平泉雑記』(安永2年、1773年)に中尊寺の鎮守白山宮の傍らにあった老杉の「姥杉」は南祖坊の手植えであると伝わっており、蛇身になって十和田沼に入った話も記されている。津軽藩では、乳井村では田植え始めに、餅や赤飯をギボシの葉に包み、箸とともに自在鈎に結びつける風習があるが、南祖坊がこうすれば干ばつの憂いがないと教えてくれ、盆の間に松明を焚く風習と共に南祖坊の関連が語られている。乳井神社の社掌の先祖は南蔵坊であるとし、隣村の薬師堂村の鎮守熊野神社は坂上田村麻呂の命令で南蔵坊がこの社を創設したのが起源とされる
- ^ 菅江真澄が『いわてのやま』(1788年)で、この物語を記録する時より後の記録であり、『十曲湖』(1807年)より6年前の記録である。
- ^ 山瀬ダムのためにダム湖の底に沈んだ集落
- ^ 七座山はもとは八つのピークがあり、八郎太郎が起こした洪水で一つの山が流されピークは七つになり、また流された一つが下流の切石集落にひっかかり七折山になったとする話がある。(『二ツ井町史』、二ツ井町町史編さん委員会、1977年、p.533-534)
- ^ 田沢湖の別名。由来は漢槎宮による。「槎」と「楂」は異字体
注釈(付随する伝承)
- ^ 八郎太郎は八之太郎、八郎というものがある、出生地については青森県では中津軽郡目屋沢(『新撰陸奥国誌』(天正年間、1573年-1592年))、黒石市山形(『津軽口碑集』(昭和4年、1929年))、北津軽郡相内村(『津軽俗説集』(寛政年間))、岩手県では和賀郡の鬼柳県(現金ケ崎町駒ケ岳の南南西の山中にある八郎沼(北緯39度10分28.55秒 東経140度54分43.53秒 / 北緯39.1745972度 東経140.9120917度)という沼に最初住んでいたとする『邦内郷村志』(明和寛政年間、1764年-1801年))、北岩手郡寺田村(太田只雄『岩手の伝説』)。岩手県田山では日泥集落にいた与太郎、三郎、八郎の三兄弟が大多利沢に出かけて八郎がヤマメを一人で食べ大蛇になったとする(『だんぶり』、八幡秀男、だんぶり社、1984年、p.44、『夏氷山の伝説』)。田山村にいたのは八の太郎とし、安比川の続石をせき止めようとするも、荒谷の不動明王に怒られ十和田に逃げたとする(『南部二戸郡浅沢郷郷土史料』)。九戸郡山形村では安家村の山奥(『山形村昔話集 むかしばなし』)。秋田県では鹿角郡大湯村草木(菅江真澄『十曲湖』(1807年))、山形県では西田川郡温海町越沢(戸川安章『羽前の伝説』(1975年))などがある。
- ^ 八郎潟北西岸に祀られている妻は三種町芦崎(あしざき 姥を足の先で蹴り上げたための命名とも言われる)の姥御前神社の祭神、夫は八郎潟町三倉鼻の「夫殿の岩窟」(おとどののいわや)の祭神である。夫殿の岩窟は現在国道7号線からも見ることができる大きな岩穴で、大昔ここが海岸だった時代の波の穴と言われている。また、縄文時代には居住施設としても使われている。また、芦崎地区では夫婦別れの原因となった鶏を不吉なものとして忌み嫌い、他の地区に行っても卵も食べない人が多かったが、敗戦のショックからその風習も廃れていったという。芦崎の地名は八郎太郎の「足の先」から名付けられたとも言われる。八郎潟が作られた日時は大同2年二月二十四日とされ、鷹巣盆地の日時と矛盾するが、水神系の祭日が二月二十四日に多く、大同2年は天台宗の慈覚大師伝承や坂上田村麻呂伝承によく使われる年号で、「物事の起きた年」という意味合いであるとする人もいる。(「東北復興」2013年9月16日 第16号、2面)
- ^ 八郎太郎は、男鹿半島の一の目潟の女神に惚れ、一の目潟に棲もうとした。しかし男鹿真山神社の神職で弓の名人であった、武内弥五郎に片目を射られ撤退したという(『辰子姫と八郎太郎 伝説の田沢湖』、1965年、p.20-22)。一ノ目潟の龍女に八郎太郎は通っていたが、龍女は我が家が八郎に奪われることを恐れ、北浦の社家紀真康に八郎を射殺して欲しいと頼んだ。真康の射た矢は投げ返され、彼の左目を潰した。そのためこの家の主人は以後7代まで片目で、また湖を舟で渡ることは禁忌であった。しかし、この時の約束でこの家から一ノ目潟に雨を請えば必ず験しがあったという。真康の家は紀丹後正と称し、代々真山の赤神神社の社家であった。(『絹篩』巻3、『秋田風土記』北浦村の条、『雨の神―信仰と伝説』p.242)という話もある。赤神神社や真山神社は古くは天台宗であったが、赤神神社は1391年に真山神社も南北朝時代に真言宗に変わっている。
- ^ 後に八郎太郎が辰子と暮らすようになった時、噂を聞きつけた南祖坊が再び八郎太郎へ戦いを挑んだ際、辰子がクニマスを南祖坊へ投げつけ、松明に戻ったクニマスにより南祖坊が火傷を負い、撤退した話が伝わっている。また、八郎太郎が、田沢湖の辰子姫のもとへ通ったとき、湖に落としてしまった松明がクニマスになったという話もある。(『上小阿仁の民俗』、東洋大学民俗研究会、1979年、p.435)
- ^ 辰子と田沢湖に暮らす以前から、八郎潟が冬になると凍ってしまう事から凍る事の無い一の目潟の女神に一緒に住むことを申し込むがかなわず、渡り鳥から自分と同じく竜となってしまった辰子の存在を知り、辰子に求愛する民話もある(『秋田民話集』、1966年、p.23-25)。
- ^ 秋田県仙北市の潟尻集落の神明堂では、毎年夜を徹した宴会を開く。これは、八郎太郎が湖に飛び込む音を聞くと死ぬため、聞かないようにするためという(『羽後の伝説』, p. 49-50)
- ^ 秋田市上北手荒巻前田の八兵衛という家(下北手のある家や中村家という話もある)は八郎太郎が泊まる家であった。八郎が立派な男になって泊まると、八兵衛は一生懸命に酒を飲ませて御馳走をした。八郎が寝姿を見るなと言ったもののある時、この家の者がこっそり見てしまった。すると、八郎は竜になって寝ていた。朝になったら八郎はいなくなった。その後、その家の母親は産気づき庭で蛇を産み、八兵衛は没落した。八郎はいかなくなったしまった(『秋田民俗』第5号、1973年)。
- ^ 上淀川のある宿屋に、毎年奥の部屋を頼む僧がいた。翌朝大枚の金を払っていく。このため貧乏な宿屋も次第に繁盛していった。ある年、また僧が現れ決して部屋を覗かないでほしいと言って部屋に入った。ところが女中が誤って部屋に入ったところ、大きな蛇が金の屏風に鎌首をもたげて眠っていた。女中が悲鳴を上げて腰を抜かし、家の人たちが驚いて集まると僧が介抱している。翌朝、僧はいつもの如く金をおいて旅立っていったが、翌年からは来なくなり、繁盛していた宿屋もまた元のように貧乏になっていった。同様の伝説は境、西明寺、中川、神宮寺、土川、秋田市にもあるという(『協和町郷土誌』)。
- ^ 八郎の定宿の一つが、角館町北沢の仙波三右衛門の家であった。同家の付近には、今なお銀砂が敷かれているという。また、北沢の七兵衛屋敷も八郎が泊まった宿である。七兵衛が植えたという大杉があるが丈が低い。これは根本に金を植えたために冷えて育たないという。この他、八郎淵というのがあって、ここに落ちると三年のうちに死ぬという。八郎が田沢湖に通う往復の定宿は、小野寺の赤坂吉右エ門家であった。ある年の吹雪の晩、つねづね八郎を不審に思っていた婆が約束を破って部屋をのぞく。大蛇であることを知られた八郎は、翌朝悄然として宿を去る。翌年の六月突然村に大洪水があり、婆は濁流に呑まれて死ぬ。さらに毎年凶事が続いたために吉右エ門は断絶したという。これらは八郎の祟である。現在、潟尻川と檜木内の合流地点に吉右エ門屋敷という荒れ果てた場所がある。毎年十一月九日には八郎が暴風雨を起こして田沢湖の金鶴子のもとに通ってくる。この時、八郎がやってくる音を聞かないよう、酒を飲んで歌って騒ぐ(『秋田伝説集 仙北郡』)。
- ^ 昔、下北手の柳館の赤平潟のほとりに農家があり、夫婦と娘が暮らしていた。娘は隣村に嫁いだが、嫁入り先に冷遇されて生家に戻る。夫婦は怒って娘に帰るように促したので娘は悲しんで葛の葉をちぎりながら一晩、潟のそばにいた。そしてついに潟に入水して主になった。ここに八郎が毎年訪れては赤平潟の主と逢瀬を楽しむようになる。この時、旅僧姿になって潟のほとりの山本孫四郎の家に泊まる。ある年も潟からの帰路、山本家に泊まり「寝姿を見ないでくれ」と頼んで部屋に入る。家人が好奇心にかられてのぞくと、旅僧は大蛇になっている。八郎は再び訪れず、孫四郎の家もしだいに傾いたという。赤平潟の主になった娘がちぎった葛には、今も切り込みの入った葉が生えるという(『河辺郡大観』)。この赤平潟の女性の名はとら子という。八郎は羽織袴で孫四郎の家に泊まり、大蛇となった八郎はさす木に真赤な姿をしてとぐろを巻いて寝ていた。孫四郎の家が貧しくなったのは八郎が泊まるときに金を置いていったのが無くなったからだという(「秋田民俗」第5号)。
- ^ 八郎潟は田沢湖姫と夫婦になりたかったが、なかなかなれなかった。それでしばらく、田沢湖に通っていた。そのため、八郎太郎は寝姿を見ないよう念をおして、旅館を利用した。八郎太郎の寝姿を見た旅館はつぶれた。現在、八郎潟は開拓されてしまったために八郎は田沢湖に住んでいる(『伝承文芸第11号 - 由利地方昔話集』)。
- ^ 八郎太郎が一の目潟に通うとき、野村の八郎兵衛という家に宿を取っていた。八郎太郎は夜「決して寝室を覗かないように」と念を押した。家人がそっと寝室を覗くと大蛇が梁に巻き付いていた。八郎太郎が一の目潟に行く時に渡る村はずれの橋は「潟恋橋」と言われる。八郎太郎が泊まった家はその後湯元に引っ越した。(男鹿市教育委員会『男鹿の昔ばなし(昔話・伝説・ほか)』、1993年、p.26)
- ^ 大日堂の社内浮島神社の前にある沼で、伝説では昔は大蛇が住んでいて、参詣の人たちがこの沼に銭を紙に包んで投げ入れ吉凶を占っていた。八郎太郎の伝説はこの沼から始まるという。(『東舘村勢要覧 昭和28年度』、東舘村、1953年、p.52)
出典
- ^ 『羽後の伝説』.
- ^ 『秋田民俗』、1977年、p.25
- ^ 『修験の道 三国伝記の世界』、池上洵一、1999年、以文社、p.425-432
- ^ 斉藤利男, 十和田湖伝説の伝え方を考える会『霊山十和田 : 忘れられたもうひとつの十和田湖 : 歴史の風景』文化出版、2018年、10-11頁。ISBN 9784990447786。 NCID BB26961374。
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- ^ 岩手県立図書館蔵、新渡戸仙岳寄贈、安政2年2月書写
- ^ 坂口弘之編『奥浄瑠璃集』(1994)で『十和田山本地』として翻刻
- ^ 盛岡市永福寺蔵
- ^ 青森県市史 民俗編 「資料南部」、2001年、青森県史編さん民俗部会、p.767-780
- ^ 八戸市立図書館蔵
- ^ 『雨の神 信仰と伝説』に収録
- ^ 十和田山由来記
- ^ 家井美千子「岩手大学図書館旧宮崎文庫所蔵『十和田山本地由来記』の翻刻(一)」『Artes Liberales= アルテスリベラレス』第100巻、岩手大学人文社会科学部、2017年6月、55-71頁、doi:10.15113/00014447。
- ^ 家井美千子「岩手大学図書館旧宮崎文庫所蔵『十和田山本地由来記』の翻刻(二)」『アルテスリベラレス』第101巻、岩手大学人文社会科学部、2017年12月、173-186頁、doi:10.15113/00014480。
- ^ 『奥浄瑠璃本の研究』で翻刻、成田守、1985年
- ^ 『奥浄瑠璃集 翻刻と解題』に収録、坂口弘之、1994年
- ^ 慶應義塾図書館蔵
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