レニ・リーフェンシュタール
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人物
国家社会主義ドイツ労働者党政権下のナチス・ドイツで製作されたリーフェンシュタールの映画作品、とりわけベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』と1934年のナチス党大会の記録映画『意志の勝利』がナチによる独裁を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画として機能したという理由から、戦後はナチスの協力者として長らく非難、黙殺され続けた。1970年代以降、アフリカのヌバ族を撮影した写真集と水中撮影写真集で、戦前の監督作品も含めて再評価の動きも強まったが、ナチス協力者のイメージは最後まで払拭されなかった。
来歴
リーフェンシュタールはベルリンの貧しい家庭に生まれた。1923年、表現ダンスのダンサーとしてデビュー。一時はドイツ舞踏界を代表するスターと注目されたが、ダンスのステージで膝を負傷して舞踏家の道を断念した。
次に映画界に転身し、女優になった。山岳映画の主人公を演じ、映画女優としての成功を得た後の1932年、初の監督と主演をつとめた映画『青の光』がヴェネツィア国際映画祭で銀賞を受賞、独特の映像スタイルで映画監督としての地歩を固めた。
ナチス・ドイツ時代
ナチスが政権を獲得した1933年、リーフェンシュタールの才能を高く評価したアドルフ・ヒトラー直々の依頼により、ニュルンベルク党大会の映画、『信念の勝利』を監督した。翌1934年には『意志の勝利』(1935年)を撮影した。この映画は国外でも高い評価を受け、1937年のパリ国際博覧会で金メダルを獲得した。さらに、国際オリンピック委員会のオットー・マイヤーから依頼を受けて撮影したベルリンオリンピック(1936年)の記録映画『オリンピア』でヴェネツィア映画祭最高賞(ムッソリーニ杯)を受賞した。
リーフェンシュタールはその自伝において、『意志の勝利』や『オリンピア』撮影中に、彼女を好ましく思わないヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相によって執拗に妨害されたと記している[1]。しかし公式記録にこうした妨害をうかがわせる記録は一切残っていない[1]。また自伝には『オリンピア』撮影中にゲッベルスがあまりに執拗に妨害を行ったために、ヒトラーがオリンピック映画撮影の部署を宣伝省から外し、総統直轄としたという記述もあるが、そのような措置が執られたという記録は存在せず、リーフェンシュタールとの契約からその後の担当まですべて宣伝省が行っている[2]。
第二次世界大戦勃発後の1940年から1944年までは映画『低地』の撮影を行っているが、完成したのは戦後の1954年になってからであった。
リーフェンシュタールは最後までナチス党員になることはなかった。しかし、ナチズムに協力した映画監督としては最も著名であったことで、生涯にわたって非難を浴び続けることになる。
戦後
第二次世界大戦後、リーフェンシュタールはアメリカ軍とフランス軍によって逮捕され、精神病院に収監されるが、非ナチ化裁判においては「ナチス同調者だが、戦争犯罪への責任はない」との無罪判決を得て釈放された。
その後も西ドイツ国内外のジャーナリズムからナチズム同調への批判を受け続けたが、そのたびに裁判を起こし、結果そのすべてに勝訴したとしている。しかし『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(スティーブン・バック著)によると、それは彼女が回想録などで作り上げた伝説にすぎず、敗訴した例もあるという。戦前から準備を進めていた劇映画『低地』は、映画監督ヴィットリオ・デ・シーカと詩人のジャン・コクトーから熱狂的な賛辞を贈られたものの、興行的には失敗した(エキストラにナチスの強制収容所に収容されていたロマ達を起用したことも非難された)。その後もリーフェンシュタールを監督に据えた映画の企画が何度か持ち上がったものの、その度に批判を受けたため映画配給会社から敬遠され、全てお蔵入りとなった。以降も政治的な批判、また「ヒトラー(ゲッベルス)の元愛人」というような流言まで飛び交い、ナチス協力者というレッテルとそれによる非難に苛まれ、失意の日々を過ごした。
1962年、旅行先のスーダンでヌバ族に出会い、10年間の取材を続け1973年に10カ国でその写真集『ヌバ』を出版、写真家としてセンセーショナルな再起を遂げる。同年、年齢を若く申請し実際は71歳でスクーバダイビングのライセンスを取得し水中写真に挑戦し2冊の写真集をつくった。ところが、『ヌバ』でその撮影手法がナチスと関連しているなどという批判も再び行われた。
リーフェンシュタールは晩年もアフリカを何度も訪問していたが、2000年、98歳の時に訪れた内戦中のスーダンで、搭乗していたヘリコプターが攻撃を受け墜落する事件に遭った。リーフェンシュタールは負傷したものの一命を取り留めている。100歳を迎えた2002年には、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』で現役の映画監督として復帰し、これが生涯で最後の映画作品となった(世界最年長のダイバー記録でもある)。その翌年の2003年、リーフェンシュタールは長年助手を務めたホルスト・ケトナーと結婚し、最期は彼に看取られて101歳で死去した。ケトナーの談話によれば、自然に鼓動が止まる安らかな死を迎えたという。リーフェンシュタールの映画人としての手腕は評価されており、『意志の勝利』、『オリンピア』で駆使された映像技術はのちの映画撮影に影響を与えた。音楽界ではローリングストーンズのミック・ジャガーが、レニの映画のファンであることが知られている[3]。
年譜
- 1914年 少女が車の下敷きになる事故を目撃。これをきっかけに「この世界で悪が善よりも強いものならば、とっくに善をくいつくしてしまっているだろう。それなのに自然はこんなに美しい。春は繰り返しやってくる。自分は人生に向かって『ヤー(はい)』と言おう」「たとえ何が起ころうと、人生を肯定して生きよう」という自分の生き方を確立した。
- 1917年 メルヘン小説に没頭
- 1918年 高等女学校卒業、ダンス学校に入学
- 1919年 ターレの寄宿学校入学
- 1921年 いったん家出するが父の許可が出てロシアのバレエ教師に弟子入り
- 1923年 父の資金提供でベルリン公演。ほとんど満席で、一夜にして有名になり欧州各都市で公演。実家を出てアパートを借りる。婚約
- 1925年 『聖山』撮影開始
- 1926年 『聖山』封切り
- 1930年 『モンブランの嵐』封切り
- 1931年 『白銀の乱舞』撮影開始、『青の光』製作のためにレニ・リーフェンシュタール・スタジオ・フィルム会社設立。ロケハン開始
- 1932年 『青の光』封切り、ヒトラーに手紙を出し、面会する
- 1933年 『雪と水の闘い』出版。『信念の勝利』封切り(12月1日)
- 1934年 『意志の勝利』製作用に社名変更『党大会映画会社』。撮影
- 1935年 『意志の勝利』封切り。国民の映画賞を受賞
- 1936年 ベルリンオリンピック大会を撮影
- 1938年 『オリンピア』封切り、うち『民族の祭典』がヴェネツィア国際映画祭で外国映画最高賞(ムッソリーニ杯)
- 1939年 『ペンテレージア』製作着手。ドイツ軍の戦争報道員として従軍しポーランドへ
- 1940年 『低地』製作着手
- 1942年 『低地』スタジオ撮り終了
- 1943年 キッツビューエルの家に疎開。映画を完成させようと努力
- 1944年 ヒトラーとの最後の対面
- 1945年 アメリカ軍により逮捕、釈放。フランス軍により逮捕、証拠として私物の接収。釈放。以後、逮捕・釈放、精神病院収容・退院を繰り返す
- 1948年 非ナチ化審査機関でナチス構成員ではなかったとの判決(12月1日)
- ^ a b 平井正 1991, pp. 167、170.
- ^ 平井正 1991, pp. 170.
- ^ トライアンフ・オブ・ザ・ウィル 2023-8-1閲覧
- ^ 田野大輔 2003, pp. 195.
- ^ 田野大輔 2003, pp. 207.
- ^ 『ヒトラーのテーブル・トーク』1941-1944 上 三交社 358p。他の三人はヴィニフレート・ワーグナー(ジークフリート・ワーグナー夫人)、ゲルディ・トロースト(パウル・トロースト夫人)、ゲルトルート・ショルツ=クリンク(全国女性指導者)
- ^ 吉田和比古『<論説>メディア,あるいはファシズム : レニ・リーフェンシュタール論』 216p
固有名詞の分類
写真家 |
ティナ・モドッティ イリナ・イオネスコ レニ・リーフェンシュタール クラレンス・H・ホワイト ウォーカー・エバンス |
ドイツの俳優 |
ユストゥス・フォン・ドホナーニ マリアンネ・コッホ レニ・リーフェンシュタール イナ・バウアー ブリギッテ・ヘルム |
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ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー アナトール・リトヴァク レニ・リーフェンシュタール ウーリ・エーデル ヴァルター・ルットマン |
ドイツの写真家 |
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レニ・リーフェンシュタール レイモンド・ジョンソン マリー・ヴィグマン |
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