レニ・リーフェンシュタールとの関係
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「レニ・リーフェンシュタールとの関係」の解説
ヒトラーのお気に入りの映画監督レニ・リーフェンシュタールとゲッベルスの最初の接点は、彼女の出演作『死の銀嶺(ドイツ語版)』を1929年12月1日、当時の恋人エリカと観た時だった。この時ゲッベルスは日記に「とても美しい」「すばらしい娘!」と賞賛の言葉を残している。 リーフェンシュタールが1933年にヒトラーの指名によりナチ党大会映画を撮ることになった(『信念の勝利』)。リーフェンシュタールは、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、彼女が芸術性を第一に考えて製作したプロパガンダ映画作品のほとんどはまさに前述のゲッベルスのポリシーに反するものばかりで、やがては国内映画制作の指導指揮権一部競合を巡る両者の根深い対立へと繋がっていく[疑問点 – ノート]。 リーフェンシュタールは第二次世界大戦戦後に書かれた回顧録において、1934年のニュルンベルク党大会の撮影を行っていた彼女とスタッフをゲッベルスのスタッフが妨害したという記述を残している。しかし実際そのような行為が行われたという記録は彼女の回顧録以外に存在しない。また完成した映画『意志の勝利』を見たゲッベルスは「国家政治的・芸術的に特に価値あり」と認め、「国民の映画賞」をこの映画に授けて顕彰した。 またリーフェンシュタールは回顧録において、ベルリンオリンピックの時にもゲッベルスが「なし得る限りの妨害」をし、ヒトラーがオリンピック映画の管轄を宣伝省から直轄の部署に移動させたと記述しているが、実際にはそのような措置はとられていない。
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