バート・ドリーブルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/09 01:31 UTC 版)
紋章 | 地図 (郡の位置) |
---|---|
基本情報 | |
連邦州: | ノルトライン=ヴェストファーレン州 |
行政管区: | デトモルト行政管区 |
郡: | ヘクスター郡 |
緯度経度: | 北緯51度44分 東経09度01分 / 北緯51.733度 東経9.017度座標: 北緯51度44分 東経09度01分 / 北緯51.733度 東経9.017度 |
標高: | 海抜 220 m |
面積: | 115.3 km2 |
人口: | |
人口密度: | 165 人/km2 |
郵便番号: | 33014 |
市外局番: | 05253, 05259, 05238, 05724 |
ナンバープレート: | HX |
自治体コード: |
05 7 62 004 |
行政庁舎の住所: | Am Rathausplatz 2 33014 Bad Driburg |
ウェブサイト: | www.bad-driburg.de |
首長: | ブルクハルト・デッペ (Burkhard Deppe) |
郡内の位置 | |
地図 | |
バート・ドリーブルク(ドイツ語: Bad Driburg、 [baːt ˈdriːbʊrk][2]、1919年までは Driburg)はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州東部デトモルト行政管区のヘクスター郡に属す市である。人口約 18,500人のこの街は、トイトブルクの森/エッゲ山地自然公園内のエッゲ山地東側の急斜面に位置している。バート・ドリーブルクは薬湯、グレーフリッヒャー・パルク(伯爵の公園)、ガラス生産と販売、炭酸製品の産業で知られている。
地理
位置
バート・ドリーブルクは、ヘクスター郡の西端でパーダーボルン郡との郡境、連邦道 B64号 ミュンスター - パーダーボルン - ヘクスター - ゼーゼン線に面している。この道路は、ドリブルガー・タールへのエッゲ山地の急斜面をつづら折れで越え、中核市区の南を迂回し、アー川やネーテ川の谷をたどり、ヴェーザー川に至る。アウトバーン A33号線および A44号線は約 30 km 離れたパーダーボルンおよびシェルフェーデ近郊でアクセスできる。10 km 離れたエッゲ山地西側のアルテンベーケンには鉄道の乗換駅があり、ICE や近郊列車に接続する。長さ 1,632 m のレーベルクトンネルがエッゲ山地を通っている。近郊鉄道もやはりアー川の谷を利用してヘクスターやホルツミンデン方面に接続している。最寄りの空港は、約 40 km 離れたパーダーボルン/リップシュタット空港である。
エッゲ山地はヴェストファーレン盆地の東境を形成している・西の境界はヴェーザーベルクラントである。この地域はライン川水系とヴェーザー川水系との分水界にあたる。平均高度海抜 400 m の尾根状の山地は、トイトブルクの森の南の延長であり、ザウアーラントにつながっている。ケスタ東斜面の麓、海抜 280 m 付近のレーテ層と亀裂が多いムシェルカルク統の地層との間からヴェーザー川の支流が湧出する: エンマー川(バート・ドリーブルク=ランゲラント)、アー川(バート・ドリーブルク=レールゼン)、ネーテ川とエーゼ川(バート・ドリーブルク=ノイエンヘールゼ)。炭酸を含んだ地下水は表面近くに鉱泉として現れるが、深い地層にボーリングされてもいる。市内の最高点は海抜 435 m、最低地点はヘルステ近郊のアー川の谷の海抜 147 m の地点である。
バート・ドリーブルクの中核地区が位置している盆地には 2本の流出する川がある。北部はシュヴァレンバッハ川によって排水され、ローゼンベルクとシュタインベルクとの間でアー川に流れ込む。中部と南部はヒルゲンバッハ川によって排水され、シュタインベルクとデューゼンベルクとの間でアー川に注ぐ。
地質学
市域の硬い岩盤は主に中生代の泥岩、泥灰岩、石灰岩、砂岩からなる。多くの部分が三畳紀に形成されたものだが、ランゲラント付近はジュラ紀、キュールゼン付近は白亜紀に形成された。これらの堆積岩は 1 km 近くまで堆積している。地質学的な時代の経過に従って、多くの鞍部、盆地、地溝、地塁、小さな地塊が形成された。
バート・ドリーブルクの盆地を幅広い鞍部構造が横切っている。北部と南部の市区は断層のある褶曲山地の反対側に位置している。古生代の岩は、地下深くに存在する。礫、砂、風で沈積された黄砂といった氷期の脆い岩が谷の平地やアルハウゼン - アイヒミルデの窪地の硬い下層岩盤を覆っている。
大部分がカルスト化した三畳紀の石灰岩は、地下水の良い水路になっている。擾乱によって形成された複雑な水路を上に向かって押し出される際に地下水がミネラル化された炭酸を含んだミネラルウォーターはブンター統中期の地層に存在している。
エッゲ山地の尾根では大変栄養分に乏しい砂地のポドゾルが支配的である。エッゲ山地の東急斜面の北部と南部はスタグノゾルで構成されている。中央部分は、黄土ロームの表層と石や粘土の多いロームや褐色土からなる栄養分の豊かなレンジナが主である。氷期の黄土の表層がある残りの部分は、農耕利用と都会的な住宅地利用との間でせめぎ合っている[3]。
バート・ドリーブルクの市域は、地熱ゾンデによる地熱源やヒートポンプによる地熱採取については、原則的には「良好」から「極めて良好」な状態にある(右図参照)[4]。バート・ドリーブルクの中核市区は、州指定のバート・ドリーブルク=ヘルマンスボルン鉱泉保護地域に位置しており、鉱泉保護のため地熱のボーリングは許可されていない。もう一つの問題は扱いにくい土壌である。30 m ほどの深さですでに自噴する可能性が高い地層にあたる[5]。
市域の広さと土地利用
「クラインシュタット」(小都市)に分類されるこの街の面積は 115.07 km2 で、南北の最大長は 15 km、東西のそれは 7.5 km である。
Fläche nach Nutzungsart[6] |
農業用地 | 森林 | 宅地、空き地 産業用地 |
交通用地 | 水域 | スポーツ用地 緑地 |
その他 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Fläche in km² | 50.93 | 49.43 | 7.34 | 5.69 | 0.69 | 1.06 | 0.16 |
Anteil an Gesamtfläche | 44.2 % | 42.9 % | 6.4 % | 4.9 % | 0.6 % | 0.9 % | 0.1 % |
隣接する市町村
バート・ドリーブルクは、北はシュタインハイムおよびニーハイム、東はブラーケル、南はヴィレバートエッセン(以上いずれもヘクスター郡)、南西はリヒテナウ、西はアルテンベーケン(パーダーボルン郡)と境を接する。
市の構成
バート・ドリーブルク市は、以下の 10地区からなる[7]。これらは、1970年および1975年以前はアムト・ドリーブルクおよびアムト・ゴリンゲンベルク=ゲールデンに属す町村である: アルハウゼン、バート・ドリーブルク、ジーベンシュタインを含むドリンゲンベルク、エルペントルプ、ヘルステ、キュールゼン、ランゲラント、ノイエンヘールゼ、バート・ヘルマンスボルンを含むペンプゼン、レールゼン。
各地区の人口の一覧を以下の表に示す。人口は、2012年7月30日現在のバート・ドリーブルク市の住民登録課管轄下の本市を第一居住地とする人口である[8]。
地区名 | 人口(人) | バート・ドリーブルクの地区図 | |
---|---|---|---|
バート・ドリーブルク(中核市区) | Bad Driburg, Kernstadt | 11,757 | |
アルハウゼン | Alhausen | 757 | |
バート・ヘルマンスボルン | Bad Hermannsborn | ペンプゼンに含まれる | |
ドリンゲンベルク | Dringenberg | 1,822 | |
エルペントルプ | Erpentrup | 178 | |
ヘルステ | Herste | 900 | |
キュールゼン | Kühlsen | 102 | |
ランゲラント | Langeland | 211 | |
ノイエンヘールゼ | Neuenheerse | 1,619 | |
ペンプゼン | Pömbsen | 560 | |
レールゼン | Reelsen | 792 | |
ジーベンシュテルン | Siebenstern | ドリンゲンベルクに含まれる | |
計 | 18,698 |
気候
この地方で支配的な南西風と西風が、「軽度のライツクリーマ」(寒暖の差が大きい刺激性気候)と定義される気候を決定づけている。森が豊富なことで夏の蒸し暑さから免れている。初冬には霧がかかる。山地を登る際の降雨が年間平均約 1000 mm の高い降水量に寄与している。
バート・ドリーブルク (海抜 192 m) の1971年から2000年までの長期平均気候データの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
日平均気温 °C (°F) | 0.3 (32.5) |
0.8 (33.4) |
3.8 (38.8) |
7.6 (45.7) |
12.2 (54) |
14.9 (58.8) |
16.9 (62.4) |
16.5 (61.7) |
12.9 (55.2) |
8.4 (47.1) |
4.3 (39.7) |
2.0 (35.6) |
8.4 (47.1) |
降水量 mm (inch) | 121.0 (4.764) |
74.0 (2.913) |
104.0 (4.094) |
72.0 (2.835) |
73.0 (2.874) |
86.0 (3.386) |
89.0 (3.504) |
78.0 (3.071) |
84.0 (3.307) |
85.0 (3.346) |
102.0 (4.016) |
116.0 (4.567) |
1,082 (42.598) |
平均月間日照時間 | 35.0 | 67.0 | 100.0 | 149.0 | 191.0 | 190.0 | 197.0 | 195.0 | 130.0 | 88.0 | 41.0 | 29.0 | 1410,0 |
出典:ドイツ気象庁[9] |
歴史
近世初期までの発展
青銅器時代の墳丘墓群が古い入植を示している。墓から出土した針状の装飾品は遊歩道のシンボルになっている。
歴史上最も重要な集落は海抜 380 m、谷から 170 m 上のエッゲ山地の尾根に位置するイーブルクである。考古学上は、西側の土塁の中核部にザクセン時代およびフランク時代の防衛施設である 2枚の石灰岩の壁があったことを証明した。フランク王国年代記は、753年にケルン大司教ヒルデガー・フォン・ザクセンが亡くなった場所として イーブルクを記している[10]。772年にカール大帝によって征服されたことにより、この地にあったザクセン人にとってのイルミンズールの聖域が破壊されたことは、よく知られた伝説である。1400年頃の史料によれば、カール大帝は799年に城をパーダーボルン司教に寄進し、その敷地内にペトルス教会を建設した。この教会は1231年から1256年まで助祭長座教会となり、新たに大きな建物に建て替えられたが、その基礎壁が現存している。10世紀に城山は、後にノイエンヘールゼと呼ばれる村にあった隠棲した貴族子女のヘールゼ女子修道院(868年 – 1803年)の所有となっていた。1135年頃、ベネディクト女子修道会は修道院を創設した。この修道院は1142年にゲールデ(現在のブラーケ市内)に移転した。パーダーボルン司教ベルンハルト2世は、1189年に騎士の城を建造した。この城は1223年に拡張されたが、1444年にゼスターのフェーデにより焼失し、廃墟となった。最後の騎士となったヨハン・フォン・ドリーブルクおよびハインリヒ・フォン・ドリーブルクの死後、市が城とエッゲ山地の森を相続した。聖堂参事会員ハインリヒ(1463年没)のレリーフが教区教会の聖ペテロおよびパウロ教会にある。
イーブルク (Iburg) は、ドリーブルク村 (Driburg) の名前の由来となった(最初の記録は1253年、14世紀の印章に「Sigillum Civitatis Iburg」すなわち「Iburg市の印」とある)。1290年の文書に判事と市参事会員の記述があることから、これ以前に都市権が与えられていたことは明らかである。1345年にパーダーボルン司教バルドゥインが全ての都市権を確認し、これにより古い権利文書は廃棄された[11]。この小さな楕円形の都市は教区教会の周囲に広がっていた。この教会は、元々13世紀に建てられたロマネスク様式の側廊を有する三廊式教会であった。1676年に改修され、1823年に拡張されたこの教会は1894年に老朽化のために取り壊され、現在の大きなネオゴシック様式の教会に建て替えられた。ミューレンプフォルテ沿いの市壁の一部が近年復元された。広域幹線道路は、市内ではランゲ通りとして街の長軸を形成している。
行政史
1802年までの司教領主時代には、ドリーブルク代官所は下級裁判権を有していた。この地域では 14世紀以降、数多くの小集落が衰退して廃村となった。司教領主時代初期の「オーバーヴァルディシェ・ベツィルク」(上級営林区)は、1807年から1813年までジェローム・ボナパルト治世下のヴェストファーレン王国に属した。その後プロイセン王国で、最初はブラーケル郡とヴァールブルク郡となり、1832年にブラーケル郡とヘクスター郡とが合併した後はヘクスター郡とヴァールブルク郡として治められた。バート・ドリーブルクはアムト・ドリーブルクに属し、その本部所在地であった。プロイセンの行政構造は、ドイツ国でもそのまま流用され、第二次世界大戦後の権利継承者であるノルトライン=ヴェストファーレン州にも引き継がれた。
周辺地区の発展
他の地区は独自に発展した。司教ルイトハルトは868年に妹ヴァルブルガの請願に応えてネーテ川の水源近くに「Ecclesia Herisiensis」という名の女子修道院を創設し、ヴァルブルガはその初代女子修道院長となった。この修道院は略して「Herisia」と呼ばれ、最終的に「Heerse」という名になった。現在のノイエンヘールゼである。その中心は、地元では「エッゲドーム」(エッゲ聖堂)と呼ばれる修道院教会である。この教会は元々ロマネスク様式の列柱バジリカであったが、1165年に火災で甚大な被害を受け、三十年戦争で略奪された。この貴族子女のための女子修道院は、1803年にプロイセン王によって廃止され、「困窮した貴族家の女性のための保護施設」として存続された。ヴェストファーレン王ジェローム・ボナパルトの下、この施設も没収された。近くの集落やキュールゼン村もこの修道院に属した。
隣のドリンゲンベルクは、パーダーボルン司教ベルンハルト5世(在位 1321年 – 1341年)が、エーゼ川の谷から 70 m 上った海抜 280 – 295 m の高台に建設した集落で、1323年に都市権を授けられた。集落の西部には、旧自由民の家屋や十分の一税倉庫とともに司教の城塞がある。1488年、司教のジーモン3世はこの古い城を拡張した。その紋章である「リッペのバラ」の紋章が城門の上に掲げられている。この城は、パーダーボルン司教の夏の居城とされたこともある。城は三十年戦争で焼失したが、パーダーボルン司教領主領上級森林管区オーバーアムト・ドリンゲンベルクの役所であった「オーバーアムツハウス」は再建された。1803年に地方代官の時代が終結した後、1825年にドリンゲンベルクはこの城をプロイセン政府から買い取った。この建物は、1975年にバート・ドリーブルクに合併されるまでアムト・ドリンゲンベルクの本部庁舎として使われた。城、市立ホールである十分の一税倉庫、旧市庁舎、市壁の維持管理は、市民主導で行われており、特に郷土協会が尽力している。
現在のバート・ドリーブルク市北部、海抜 315 m にある山村ペンプゼンは教会を中止とした村であり、レールゼン、アルハウゼン、エルペントルプおよびランゲラントといった集落の教会発展の原点である。ニーハイム市もかつてはこの教区に属していた。これらの村落は塊村として司教領主時代に成立し、アッセブルク家およびエーンハウゼン家の領主裁判権の下にあった。文献記録上最も古い集落はドリーブルクの東にあるヘルステで、コルヴァイアー・トラディションに850年の記述が遺されている。
経済、社会資本、教育の発展
ガラス製造業と林業
近世はガラス製造業とともに始まった。最も古いガラス製造所(おそらく12世紀から)は、ドリーブルクとアルテンベーケンとの間の森の中にあった。ノイエンヘールゼの女子修道院長は、1532年に木材を求めて移動するガラス工場で作業を行っていたガラス職人を呼び寄せた。ジーベンシュタインとノイエンヘールゼとの間の「ヘレ」に最初のガラス工場が創設された。エムデのガラス工場は最高品質の製品を生産した。炭焼きと炭酸カリウム業者は林業者の副業であった。司教領主ハインリヒ4世(1577年 – 1585年)はエッゲ山地の木材管理規定を初めて制定した。18世紀末にトウヒが植林された。ノイエンヘールゼに役所を置いていた領邦の営林局は、何度も組織変更が行われた後、2007年7月1日から州営のヴァルト・ウント・ホルツNRW(森林および木材管理)の地方営林局本部としてヘクスター郡およびパーダーボルン郡の営林業務に傾注している。
交易
ガラス商: ガラス製品や鉱泉水の発送は交易の発展を促した。最大8週間に及ぶ通商の旅を通じ、ドリーブルクのガラス製品は商人によって北ドイツ一帯で販売された。「ドリーブルガー・グラスヴァーゲン」(ドリーブルクのガラス馬車)は主にオルデンブルクからメクレンブルクまで、さらには東プロイセンでも知られていた。石油ランプの導入は新たな結びつきを生んだ。ベネディクト・コッホが、1859年にシュレージエンやボヘミアからの帰り荷として石油ランプのためのガラスシリンダを持ち込んだ。彼はこれを、フランドルやフランスを交易するドリーブルク商人に紹介した。こうしてガラスの広域通商網が始まった。
ドリーブルクのガラス商人は仲間内では特有の商人言葉を使っていた。二重母音を多用するドリーブルク方言から、子音を置き換え、隠語への広い ä-o 音を導入するといった違いが見られる。1900年のドリーブルク商人組合の加盟者リストには100軒以上のガラス商人が見られる。
家畜商: 交易の別の分野がヤギの取引である。1656年の牧草地裁判からヤギの取引が認められた。主要放牧地は「クニュル」あるいは「ツィーゲンヒューゲル」であった。1840年には 458頭のヤギが飼われていた。ヤギ商人のヤギの群は、80頭までで牧童が付き添っていた。交易の途中で買い足されることもあった。交易路はガラス商人の前例に倣い、デンマークやシュレジエンにまで至った。1842年にはヤギ商人がポーランドで商売を行ったことが判っている。ヤギ飼育に伴う若木の食被害により森林が荒廃したために、1757年にガラス製造が禁止された。1864年に鉄道が整備され、ルール地方の真ん中に鉱山従事者の集落が新たに形成されるとヤギ商人は群を鉄道でドルトムント方面に送り出し、エムシャー川流域地方のコロニーを通してデュースブルクにまで商売に出かけた。ヤギ飼育は、バート・ドリーブルクのヤギステーションが取り壊された1963年に終結した。
湯治の発展
将来的に重要だったのは、カスパール・ハインリヒ・フォン・ジールシュトルフ(1750年 – 1842年)による1782年の邦有源泉および邦有林の受領であった。この施策が、木が伐り払われた地域における持続的可能な山林経営の始まりとなった[12]。彼は、林業従事者の間で有名だった「ローゼンベルク=レルヒェン」を経営した。新しい湯治場と小さな街(人口約 850人)がシナノキの並木道で結ばれた。2つの集落の間には農場があった。最初の1782年の湯治シーズンには101人のゲストがこの新しい湯治場を訪れた。宿泊施設は、田舎の別荘風に木組み建築で建てられた。ジールシュトルフは1815年にプロイセン王国からかつてのパーダーボルンの領主の森を購入し、ローテハウス農場とゲールデン修道院農園を獲得してこの地域の大土地所有者となった。源泉に対する税は1828年にプロイセン王との間で更新がなされた。この徴税協定は、1850年に新たな法によって失効し、これ以後源泉と湯治場は私有財産となった。ドリーブルク市は、プロイセン王国のミンデン行政庁の勧めにより、1919年8月28日に「バート・ドリーブルク」と改名した。
第一次世界大戦後、ヴァイマル共和制下の健康政策によりバート・ドリーブルクにサナトリウムや民営の宿泊施設が建設され、温泉・湯治都市に発展した。バルマー・エアザッツカッセ(健康保険組合)はペンプゼン近郊に公園付き温泉療養所「バート・ヘルマンスボルン」を開発した(1924年 – 1925年)。特筆すべきは、ネオバロック様式化された施設の外観とコーカサスのクルミの木を用いたユーゲントシュティール様式の内装である。ドリーブルクの夏期の客数は、世界恐慌前までに、延べ9,400泊から17万泊に増加した。
保養地の温泉都市
この街は、病院都市として第二次世界大戦で破壊されなかった。また自由化後、様々な保険会社や経営母体が運営する 4つの新しい病院を有する温泉はイギリス駐留軍を受け容れた。初めは故郷から追放された人々の流入によって人口や客が大幅に増加した。客数は1987年にピークを迎え、57,736人、962,564泊に達し、これに加えて日帰り客がいた。温水プールは温泉地区の屋内プールを補強するものとして市によって建設された。
これと並行して、市の中核部の近代化を伴う社会資本の変化や騎士領に住宅やオフィスが建てられた。大規模な住宅建設によりこの街は特に南北方向に拡張した。早くからバイパス道路が開通したことにより市南部の 2つの産業地区に企業が進出し、ヘルステに浄水場が造られたことで田園都市は近代的な住宅都市となった。特に第二次世界大戦後には、都市近代化の枠組みで歴史的建造物の多くが小売店に活用された。クアパーク周辺には、18ホールのゴルフ場、テニスコート、屋内テニス場が設けられ、村にはペンションや乗馬場が造られた。エッゲ山地協会が遊歩道網を整備し、ハイキングが盛んになった。バート・ドリーブルク市では「ドイツ・ハイキングの日」が 2回開催された。
構造的経済危機
1960年代以降、特に1990年代後半に、経済危機発生の危険度が増した。それまでに 700人分の学籍が失われた。就業後ギムナジウム「クレメンス=ホーフバウアー=コレーク」は1997年に学生不足のため閉校された。労働集約的なガラス生産とその後工程であるガラス研磨の手工業はコストが原因で廃業せざるを得なかった。最盛期には約 300人の職場があった合板工場もやはりコスト圧力で閉鎖された。健康保険政策の引き締め策は客数を約 25 % 減少させた。温泉治療は、客構造の変化とともに、リハビリ医療となった。小売業は、外来客の減少に苦しんだ。
ジーベンシュテルンのガラス工場ヴァルター=グラス社はオートメーション化とガラス輸出を主軸としたことでポジティブな発展を遂げた。企業グループのグラーフ・フォン・エーンハウゼン・ジールシュトルフは、バート・ドリーブルクに温泉施設を移転させた。ホテルや旅館の古い建物は、2005年から2007年に改修され、近代化された。「グレーフリッヒャー・パルク・ホテル&スパ」として新たなコンセプトを開始している。この庭園は、1800年頃に 60 ha 以上の広さをもつイギリス式風景庭園として造営された。大戦間にバラ園とシャクナゲ園、それに野外音楽堂が増設された。2003年に、1786年の夏に逗留した有名なゲストであるフリードリヒ・ヘルダーリンとズゼッテ・ゴンタルト(ディオティマ)の記念コーナーが設けられた。市内への並木道沿いに「バート・ドリーブルク自然公園の泉」がある。
教育史
20世紀に学園都市への発展が始まった。騎士の子弟のための高等教育機関(1915年創設、1947年から古典語ギムナジウム、1975年から聖クサーヴァー・ギムナジウム)を持つ神言会の修道院、市立高等少年・少女学校(1922/1923年創設、1965年からギムナジウム)、ドイツ初の成人ギムナジウムである聖職者就業後クレメンティヌムがバート・ドリーブルクをヴェストファーレン最大の学園都市とした。1946年9月11日、カイザー=ヴィルヘルム研究所の後継機関として、クレメンティヌムにマックス・プランク研究所がイギリス管理地区に設立された。ギムナジウム、実科学校、本課程学校、基礎課程学校という学校構造は、第二次世界大戦後に 2つの新たな教育センターに集約された。
交通史
旧郵便街道は、1769年以降、この谷から海抜 398 m のシュテルベルク(高度差約 150 m)を越えてパーダーボルンに通じていた。この道路は1827年にプロイセンの国道に拡充された。現在の連邦道 B64号線である。1864年にドリーブルクに鉄道が建設された。
市町村合併
1969年12月2日にヘクスター郡の新設に関する法律が制定されたことに基づき、1970年1月1日、それまでアムト・ドリーブルク内の独立した町村であったアルハウゼン、エルペントルプ、ヘルステ、ランゲラント、ペンプゼン、レールゼンとバート・ドリーブルク市が合併し、アムトに属さない市として新たなバート・ドリーブルク市が成立した。アムト・ドリーブルクは廃止された[13]。
1974年12月5日のザウアーラント/パーダーボルン地域の市町村および郡の新設に関する法律(ザウアーラント/パーダーボルン法)に基づき、1975年1月1日にドリンゲンベルク市とキュールゼンおよびノイエンヘールゼ(これらの市町村はそれまでアムト・ドリンゲンベルク=ゲールデンに属していた)がバート・ドリーブルク市に編入された。さらに本市はヘクスター郡に属すこととなった[14][15]。
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- ^ Unternehmensgruppe Graf von Oeynhausen-Sierstorpff(2015年2月7日 閲覧)
- ^ Ritzenhoff & Breker(2015年2月7日 閲覧)
- ^ WALTHER-GLAS(2015年2月7日 閲覧)
- ^ Wieneke Anlagenbau- & Verfahrenstechnik GmbH(2015年2月7日 閲覧)
- ^ Elektro Beckhoff(2015年2月7日 閲覧)
- ^ Goeken Backen(2015年2月7日 閲覧)
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