ハインリヒ・ヒムラー
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人物
- アドルフ・ヒトラーからはその忠実ぶりから「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていた。エルンスト・レームからは名前と掛けて「アンヒムラー(Anhimmler、「熱狂的崇拝者)の意)」と揶揄されていた[176]。また「ライヒス・ハイニ(Reiches Heini)」というあだ名もあった[81]。これらが美称にせよ蔑称にせよ、ヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーに対する共通した風評であった。
- ヒムラーは部下ラインハルト・ハイドリヒの操り人形であるとの風評があり、「HHhH(Himmlers Hirn heißt Heydrich)、「ヒムラーの頭脳、すなわちハイドリヒの意」という揶揄が流れた[177]。
- 運動神経は鈍く、1936年にバート・テルツの親衛隊士官学校で国家体力検定を受けた際、親衛隊全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、力及ばず結局銅賞で終わった。しかし、ヒムラーはどうしても銀章が欲しく、銀章の受賞者であるカール・ヴォルフ(ヒムラーの副官)から、昇進させることを条件に銀章を譲り受けたという[178]。また、親衛隊少将ヴァルター・シェレンベルクの回顧録によると、1939年9月にポーゼンを訪れた際、列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという[179]。その後、取り巻きの親衛隊将官や将校たちは、落としたヒムラーの鼻眼鏡を探すのに苦労し、激昂した彼の怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとして、彼に「君を恨むぞ」と言ったという[179]。
- 生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師フェリックス・ケルステンを寵愛した。そのため、彼はヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によると、エルンスト・カルテンブルンナーは彼を警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を謀ろうとしたことがあるという。これを知ったヒムラーは憤慨し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルステンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と脅迫したという[180]。
- ヒムラーは部下の親衛隊員に「強さ」を求める演説を何度も行った。彼と話しているとすぐに「強さ」の話が始まるので、ヘルマン・ゲーリングはそれを「ヒムラーの発作」と揶揄した[181]。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装親衛隊の士官学校などでは実弾を使った訓練など、過酷な演習が行われ、しばしば事故死が発生し[181]、イギリス軍のコマンド部隊の訓練に匹敵する死亡者水準であったという[182]。ゲーリングはヒムラーから武装親衛隊の実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ」と皮肉ったという。ただ、ヒムラーがそれにどう反応したかは伝わっていない[181]。
- 地味な容姿のせいか、「見た目より中身は濃い」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。
- 軍事司令官としては全くの無能で、贅を尽くした野戦司令本部に引きこもり、起床後は入浴、朝食、マッサージを済ませて10時半を過ぎてから執務を開始する[183]。指示もいい加減で、何かあるたびに「退却は気持ちがない証拠だから」と厳罰に処すことを求め、「即決裁判だ」「軍法会議だ」を繰り返し、勲授の授与だけに興味を持つ無能ぶりを露呈した。ついには戦局の悪化に耐えきれず、インフルエンザを理由にサナトリウムに移り事実上の職場放棄をしてしまう。さすがのヒトラーもあきれ果て、グデーリアンの進言を受けて早々に交代を命じた。ヒムラーは早速本部に舞い戻って事務引き継ぎを開始するが、自己弁護を延々と続け、戦況悪化を伝える電話が来ると即座に受話器を新司令官に渡して「新しい司令官殿。あとはよろしく」と言うなり蒼惶と立ち去ったという[184]。
- 私腹を肥やすナチ党幹部が多い中、ヒムラーは権力を握ってからも華美な生活を嫌い、私生活は極めて質素であった[185]。1929年から給料を据え置いたと言われ、ランゲ・ウント・ゼーネの腕時計を買うのにケルステンから100ライヒスマルクの借金をしていたという[186]。「親衛隊全国指導者友の会(de)」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーはそれを横領して私腹を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという[186]。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」という言葉を残している[187]。
- ヒムラーはカトリックの教育を受けたにもかかわらず、自らの不倫の「哲学的」正当化のため「離婚の禁止や一人の配偶者を守れなどということはキリスト教会の不道徳な規定である。少子化も不貞もキリスト教会のこの誤った教義のせいである」、「一夫多妻制にすれば別の妻が刺激となって、もう一人の妻はあらゆる点で理想的女性になろうと努力するであろう。気性が荒かったり、体がぶよぶよした女性はいなくなるだろう」などと述べていた。また「戦場で勇敢に戦って戦死した者には美女二人が与えられる」と説いたイスラム教の預言者ムハンマドを称えていた[188]。
- ヒムラーは親衛隊の軍規や規律に反する行為をした隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員に親衛隊の法廷が下した判決が報告されると、彼はもっと厳しい罰を下すよう命じることが多かった[181]。特に横領や命令されていない殺人など、個人的犯罪は厳罰を以って処した[189]。1935年の親衛隊命令でも、命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することを禁じている[189]。ブーヘンヴァルト強制収容所所長カール・オットー・コッホ親衛隊大佐も、横領と個人的殺人の容疑で逮捕・処刑されている。これは殺人自体より、親衛隊の規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であったためである[189]。
- 一方で動物には優しく、動物の保護やドイツの子供たちへの動物愛護教育を熱く論じていた[190]。狩猟長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずに森の端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている[171][191]。このヒムラーの動物への優しさは彼が「下等人種」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは下等人種について「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である」と述べており、事実上、動物より下に位置づける価値観を持っていた[190]。また、彼は菜食主義であり、殺生を嫌ったために動物の肉は食さなかったとされている。
- ヒムラーの歴史観で一番大事なものは、地位や社会階級ではなく「ゲルマン民族の血」であった。個人はすぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅のものと考えていた。そのため祖先、家系の名誉のためには自決さえもいとわないという日本の武士道に共鳴していたといわれる[192]。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、「日本を見習え」と演説している。この他にも、ローマ帝国のプラエトリアニ、インドのカースト制のクシャトリアにも強い感銘を受けていた[193]。
- SD対外諜報部長官ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将によると、ヒムラーの日本への関心はかなり強く、日本史にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊と日本軍の士官候補生の交換留学も考えていたという[194]。また日本人がアーリア人種であることを立証しようとし、戦争末期になってもルーン文字とカナ文字の関連性についての調査に意見をしたりしていたともされている[195]。
- 部下たちの残虐な処刑を視察して、気分が悪くなったという証言が複数ある。
- 1941年8月、ヒムラーはミンスクでアルトゥール・ネーベ親衛隊中将の指揮するアインザッツグルッペンB隊の銃殺を視察し、彼に100人を自分の目の前で銃殺するよう命じたが、女性も多数混じっており、それを見ていた彼は気分を悪くしてよろけ、危うく地面に手をつきそうになってしまったとエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー親衛隊大将は証言している[196]。後にアインザッツグルッペンの虐殺が銃殺からガストラックによる殺害に変更されたのは、このためではないかといわれている[196]。
- 1941年12月15日、ハイドリヒがベーメン・メーレン保護領副総督として統治していたプラハを視察したヒムラーは、プラハ聖堂横の広場で行われた大規模な公開処刑を見学した。ところが掃射された直後に彼は気を失って椅子にどさりと座り込んだという。ハイドリヒが警察長官とともにヒムラーの肩を掴んで助け起こし、メルセデス・ベンツまで運んだが、ハイドリヒの顔には軽蔑の色が浮かんでいたと、クルト・シャハト=イッサーリス親衛隊大将は証言している[197]。
- 強制収容所の視察中にヒムラーは、ユダヤ人のガス室処刑の様子を覗き穴から見たが、彼は気分を悪くしてガス室の裏へまわり嘔吐したという。この様子を目撃した二人の親衛隊員は、最前線に送られることになったという(強制収容所の囚人ハンス・フランケンタールの証言による)[198]。
ヒムラーとオカルト
ヒムラーは理想主義者であると同時に空想家としての一面もあった。幼い頃から父親から中世史や神話などを読み聞かされて育った影響で、超自然的なことやスピリチュアリズムに大きな興味を寄せており、ナチ党幹部の中で最もオカルティズムに魅了された人物であり、狂信的な神秘家であったという証言もある[199]。「宇宙氷説」などの怪しげな理論やゲルマン民族に関する空想的歴史を信じ、親衛隊のイデオロギーに取り入れた[200]。宗教学的に定義された神秘主義とは異なるが、ヒムラーの思想について血の神秘主義や歴史神秘主義と形容する向きもある。
ヒムラーは1933年にオーストリアから来た民族主義的オカルティスト、カール・マリア・ヴィリグートと知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前にまでさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた」、「イルミネンシャフトがゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した」、「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた[201]。ヒムラーはヴィリグートの思想に大変のめりこみ、彼を親衛隊に招き入れ、親衛隊人種及び移住本部に配属させた。ヴィリグートはいつでもヒムラーのオフィスに入ることを許され、彼に「過去の記憶」を披露して喜ばせた[202]。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する親衛隊名誉リングのデザインもヴィリグートに任せている[202]。
ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「アーネンエルベ」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し、チベットやシュヴァルツヴァルトなど神秘的な場所で、先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの聖杯を探させたこともあった[174]。ヒムラーは、聖杯はキリスト教がキリスト教より古い歴史を持つ「古代アーリア宗教」から強奪した物であり、必ずドイツ人が見つけ出して取り戻さねばならないと信じていた[203]。
東方から攻め寄せてきたフン族の攻撃を防いだ砦と言われる、ヴェストファーレンの古城ヴェーヴェルスブルク城にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月にこの城を手に入れた。「1500年の時を超えて東方から攻め寄せようとするソ連からヨーロッパを守る城である」と過去と現在を重ね合わせ、早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。大戦のドイツ敗戦までに、この城に彼がつぎ込んだ資金は1300万ライヒスマルクにも及んだ[注 11]。大食堂にはオーク製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部の名前入りの椅子が並んでいた。ここでヒムラーや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には、遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはヒムラーの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。また、城の各地に「黒い太陽」といった意匠を埋め込んだ。他にも1万2000冊に及ぶ図書室、応接間、ヒムラーの客室、親衛隊最高法廷もこの城に設置された[205][206][要文献特定詳細情報]。
またヒムラーは、スラヴ民族の征服者であるザクセン王ハインリヒ1世を深く尊敬していた。これはスラヴ民族(=ソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には、必ずクヴェードリンブルク大聖堂の墓を詣で、冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまずいていた。ケルステンによると、ヒムラーは7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のヒムラーが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという[207]。
ヒムラーは熱心なカトリックの家に生まれ、本人も若かりし頃は熱心なカトリックであったが、ナチ党の活動をするうちに徐々にキリスト教とは距離を置くようになっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の結婚式はキリスト教会で行なうことを禁止した。また、クリスマスを祝う習慣をやめさせるため、冬至祭を親衛隊の祭典とし、キリスト教ではなく親衛隊を通じて神を信ずる者を彼は求めた。しかし、結局隊員たちをキリスト教から切り離すことはできず、一般親衛隊の三分の二は変わらずキリスト教徒のままであった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局処分用件が緩和されるなどしていった。一方で雑多な人種がいた武装親衛隊や髑髏部隊では比較的多く、武装親衛隊の53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの部隊に配属されていた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊大将のように、執務室に専用の礼拝堂を置く者もいた[208]。
しかし、ヒムラーのオカルト思想は多くの人にとっては到底付いていけるものではなく、彼の長々とした儀式や突拍子もない話に付き合わされる親衛隊員は大抵うんざりしたという。他のナチ党幹部にも受けが悪く、ヨーゼフ・ゲッベルスは1935年8月21日の日記に「ローゼンベルクとヒムラーとダレは、ばかばかしい儀式は止めるべきだ。ばかばかしいドイツ崇拝は全部やめさせなければならない。こんなサボタージュをする奴らには武器だけを持たせよう」と書いている[209]。ヒトラーもまたヒムラーのオカルティズムへの傾倒に呆れていたとされ、彼がヴェーヴェルスブルク城にヒトラー専用の部屋を作らせ、その訪問を心待ちにしていたものの、最後まで彼が来ることはなかった[205]。
ヒムラーと大指揮者
ヒムラーはベルリンフィルの首席指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを毛嫌いしていた。原因は彼が逮捕された知人を釈放するよう高圧的に要求したことにあった。元来フルトヴェングラーは偉そうな官僚に対して喧嘩をふっかける傾向があり、この時もヒムラーの恐ろしさを知らず、単なる木端役人と思い込んでいた。ヒムラーはこれを後々までも根に持って反社会的人物と見なし、収容所で抹殺する機会を執拗に狙っていた。だが、フルトヴェングラーの利用価値を重視するヒトラーやゲッベルスの反対もあり、逮捕には踏み切れなかった。アルベルト・シュペーアなどの一部の幹部はフルトヴェングラーに「あなたはヒムラーに狙われているから、早く亡命しなさい」と再三にわたり警告している。敗戦が目前となった1945年2月、ヒムラーはウィーン滞在中のフルトヴェングラーの逮捕命令を出すが、彼は間一髪でスイスに亡命し、難を逃れた[210]。
注釈
- ^ 空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングより個人的に贈られた[2]。
- ^ ヒムラーは、1945年1月23日にドイツ陸軍のヴァイクセル軍集団司令官に就任。しかし、陸軍での階級を持つことはなかった。
- ^ 国防軍の階級では元帥に相当する。
- ^ 日本における特別高等警察に相当し、共産主義者等の政治的危険分子を取り締まった。
- ^ セム人と呼ばれた。
- ^ ロマはアーリア人とされていたが、ナチスは混血を理由に劣等民族とした。
- ^ ポーランド人、チェコ人、スロバキア人、ソビエト連邦の加盟国民(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)等がこれに該当する。ヒトラーはボルシェヴィキ革命をユダヤの陰謀とみなしてロシア人を危険視したほか、ドイツ人のための東方生存圏建設に際して、そこに居住するスラヴ民族やその他の異民族を追放するか北方人種の奴隷階級とすることを構想していた。
- ^ 同様に決闘で顔に傷を入れている人物にオットー・スコルツェニー親衛隊大佐やルドルフ・ディールス親衛隊大佐がいる
- ^ 1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは語録の項目を参照
- ^ 1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは語録の項目を参照
- ^ 読売新聞2004年12月18日夕刊によると、1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという[204]。したがって1300万ライヒスマルクは273億ほどと推計される。
- ^ ロナルド・レイシーはインディ・ジョーンズ シリーズの第一作「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」でもゲシュタポ・トート役で出演している。
出典
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- ^ 中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2007年1月、118-125頁。ISBN 9784344980211。
- ^ 「独国外務大臣男爵「フォン、ノイラート」外三十三名叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113228200
固有名詞の分類
ナチ党員 |
ハインリッヒ・ミュラー フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ ハインリヒ・ヒムラー クルト・ダリューゲ アーモン・ゲート |
ナチ党員 |
ハインリッヒ・ミュラー フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ ハインリヒ・ヒムラー クルト・ダリューゲ アーモン・ゲート |
親衛隊将軍 |
ハインツ・ハルメル フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ ハインリヒ・ヒムラー クルト・ダリューゲ エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー |
ドイツ第三帝国期の政治家 |
オットー・ゲオルク・ティーラック フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ ハインリヒ・ヒムラー ヨーゼフ・テアボーフェン ヴィクトール・ルッツェ |
第一次世界大戦期ドイツの軍人 |
フェリックス・ケルステン フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ ハインリヒ・ヒムラー クルト・ダリューゲ ヴァルター・ブーフ |
ドイツ第三帝国の将軍 |
ディートリッヒ・クライス ハインツ・ハルメル ハインリヒ・ヒムラー ヨーゼフ・カムフーバー カール・ベッカー |
神秘思想家 |
ブラヴァツキー夫人 ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ ハインリヒ・ヒムラー エリファス・レヴィ ラマナ・マハルシ |
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